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ちいさこべ
ちいさこべ |
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作品ID | 57670 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社 1982(昭和57)年10月25日 |
初出 | 「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1957(昭和32)年11月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 栗田美恵子 |
公開 / 更新 | 2019-06-22 / 2019-05-28 |
長さの目安 | 約 68 ページ(500字/頁で計算) |
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一
茂次は川越へ出仕事にいっていたので、その火事のことを知ったのは翌日の夕方であった。当日の晩にもちょっと耳にした。川越侯(松平直温)が在城なので、江戸邸から急報があったのだろう、かなり大きく焼けているというはなしだった。江戸で育った人間は火事には馴れているし、まだ九月になったばかりなので、かくべつ気にもとめなかった。
「九月の火事じゃあたいしたこたあねえ」と正吉が云った、「もっともおれの留守に大きな火事がある筈はねえんだ」
いっしょに伴れて来た三人の中で、二十歳になる正吉は火事きちがいといわれていた。彼も「大留」の子飼いの弟子であるが、十三四のじぶんから火事が好きで、半鐘の音を聞くとすぐにとびだしてゆく。大留の店は神田の岩井町にあるが、遠近にお構いなしで、いちどは千住大橋の向うまでとんでゆき、明くる日の九時ごろに帰ったことがあった。
――火事があれば大工は儲かる、火事は大工の守り神だ。
などと云って、親方の留造に殴られたこともあった。
その翌日のひる過ぎ、ちょうど弁当をたべ終ったところへ、十八になるくろがとびこんで来た。本名は九郎助であるし、べつに色が黒いわけではないが、初めからくろと呼ばれている。彼は乗り継ぎの早駕籠で来たのだそうで、「若棟梁にすぐ帰ってもらいたい」と、助二郎の伝言を告げた。
「仕事なかばに帰れるか」と茂次は云った、「いったいなんの用だ」
くろは言葉をにごした。
茂次は父の留造の名代で来ている。この土地の「波津音」という料理茶屋の普請で、大留がいっさいを請負った。左官、屋根屋、建具屋なども江戸から呼んだし、ほかに土地の職人や追廻しを十四五人使っている。茂次の伴れて来た三人のうち、大六は三十一歳になり、茂次の後見のような立場にいるが、これだけの仕事を大六に押しつけて帰るわけにはいかない。いったいなんの用だと訊き直そうとして、茂次はふと、昨日の火事のことを思いだした。
「おい」と茂次が云った、「うちが焼けでもしたのか」
くろはあいまいに頷いた。
「うちが焼けたのか」と茂次は声を高くした、「おやじやおふくろは無事か」
くろは黙って頭を垂れた。茂次は蒼くなって大六を見た。大六が立って来た。
「くろ」と大六が云った、「どうしたんだ、棟梁やおかみさんは無事なんだろう」
するとくろが泣きだした。
茂次がとびかかろうとし、大六が危なく抱きとめた。くろは腕で顔を掩い、子供のように声をあげて泣きだした。秋のまひるの、静かな普請場にひびくくろの泣き声は、そのままことの重大さを示すようで、みんな激しく圧倒され、すぐには身動きをする者もなかった。
「正吉、若棟梁を頼むぞ」と大六が穏やかに云った、「くろ、こっちへ来い」
大六はくろを脇のほうへ伴れていった。茂次は木小屋の前の材木に腰をかけた。彼の角張った逞しい顔は、放心したように力を失い、眼…