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ちゃん
ちゃん
作品ID57674
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社
1982(昭和57)年10月25日
初出「週刊朝日別冊陽春特別読物号」朝日新聞社、1958(昭和33)年2月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-02-14 / 2021-01-27
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 その長屋の人たちは、毎月の十四日と晦日の晩に、きまって重さんのいさましいくだを聞くことができた。
 云うまでもないだろうが、十四日と晦日は勘定日で、職人たちが賃銀を貰う日であり、またかれらの家族たちが賃銀を貰って来るあるじを待っている日でもあった。
 その日稼ぎの者はべつとして、きまった帳場で働いている職人たちとその家族の多くは、月に二度の勘定日をなによりたのしみにしていた。夕餉の膳には御馳走が並び、あるじのためには酒もつくであろう。
 半月のしめくくりをして、子供たちは明日なにか買って貰えるかもしれない。もちろん、いずれにしてもささやかなはなしであるが、ささやかなりにたのしく、僅かながら心あたたまる晩であった。
 こういう晩の十時すぎ、ときにはもっとおそく、長屋の木戸をはいって来ながら、重さんがくだを巻くのである。
「銭なんかない、よ」と重さんがひと言ずつゆっくりと云う、「みんな遣っちまった、よ、みんな飲んじまった、よ」
 酔っているので足がきまらない。よろめいてどぶ板を鳴らし、ごみ箱にぶっつかり、そしてしゃっくりをする。
「飲んじゃった、よ」と重さんは舌がだるいような口ぶりで云う、「銭なんかありゃあしない、よ、ああ、一貫二百しか残ってない、よ」
 長屋はひっそりしている。重さんは自分の家の前まで、ゆっくりとよろめいてゆき、戸口のところでへたりこんでしまう。すると雨戸をそっとあけて、重さんの長男の良吉か、かみさんのお直が呼びかける。
「はいっておくれよ、おまえさん」と、お直なら云う、「ご近所へ迷惑だからさ、大きな声をださないではいっておくれよ」
 喉で声をころして云うのだ。
「ちゃん、はいんなよ」と良吉なら云う、「そんなところへ坐っちまっちゃだめだよ、こっちへはいんなったらさ、ちゃん」
「はいれない、よ」重さんはのんびりと云う、「みんな遣っちまったんだから、一貫二百しか残ってないんだから、ああ、みんな飲んじまったんだから、はいれない、よ」
 長屋はやはりしんとしている。まだ起きているうちもあるが、それでもひっそりと、聞えないふりか寝たふりをしている。――
 長屋の人たちは重さんと重さんの家族を好いていた。重さんもいい人だし、女房のお直もいいかみさんである。十四になる良吉、十三になる娘のおつぎ、七つの亀吉と三つのお芳。みんな働き者であり、よくできた子たちである。
 重さんがそんなふうにくだを巻くのは、このところずっと仕事のまが悪いからで、そのためにお直や良吉やおつぎが、それぞれけんめいに稼いでいるし、ふだんは重吉もおかしいほど無口でおとなしい。だから長屋の人たちは黙って、知らないふりをしているのであった。
 たいていの場合、お直と良吉で、重さんの片はつく。しかし、それでも動かないときには、末の娘のお芳が出て来る。三つになるのに口のおそい子で、ときどき…

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