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超過勤務
ちょうかきんむ
作品ID57675
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」 新潮社
1982(昭和57)年6月25日
初出「文藝朝日」朝日新聞社、1962(昭和37)年6月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2022-11-21 / 2022-10-26
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「だめ、だめ」と若い女が云った、「いやよ、そんなことするんならあたし帰るわ」
「ばかだなあ、なんでもないじゃないか」と青年が云った、「こうしたって、こうしたって平気なのに、どうしてそれだけいけないんだ」
「知らないふりしないで」と女が云った、「あたしまだ嫁入りまえなんですからね」
「古臭いよそんなこと、きみの躯はきみのもんじゃないか」と青年が云った、「握手をする手だってキスをする唇だってきみのもんだし、そこだって同じきみの躯じゃないか」
「いやだったら、さわらないで」
「ばかだなあ」と青年は云った、「同じ躯の一部なのに、そこだけどうして区別するのさ、頬ぺただって足だってそこだって、みんな同じ組織なんだぜ」
「あなたがくどき魔だってことは知ってるわ、あなたはきまってこう云うんだって」と女は作り声になって云った、――「ザーメンさえはいらなければ完全な処女だ、トアレ[#「トアレ」はママ]へいってさっぱりするのと同じことだって、ふふ、知ってますよ」
「だってそのとおりなんだよ」
「さわらないで」女は身をそらした、「胸へさわられるとあたし死ぬほどくすぐったいのよ」
「くすぐったいだけかい」青年は女の肩を捉まえた、「そうじゃないんだ、くすぐったいだけじゃなく、もっとほかの」
「しっ、誰か来るわ」女は青年を押しのけた、「ほら聞いてごらんなさい、あの足音」
「ちえっ」と青年が云った、「きみがじらしてるから悪いんだ、損しちゃったじゃないか」
「いきましょう、堪忍袋が残業してたのよ」女は青年を押しやった、「みつかるとうるさいじゃないの、早くう」
 彼らはドアをあけて去り、ドアをそっと閉めた。
 二人の去ったドアの反対側にあるドアがあき、なんだと云う声がした。誰が電燈を消したんだ、それとも停電かな。生気のない呟き声に続いて、スイッチの音がし、電燈が明るくついた。
「おかしいな」彼は室内を眺めまわしながら首をひねった、「自分で消したのかな、そんな覚えはないんだが」
 彼は持っている帳簿を置き、大きなデスクに向かって腰をおろし、神経質に椅子のぐあいを直してから、並んでいるベル・ボタンの一つを押し、ボイス・パイプの蓋をあけた。
「給仕くん、お茶」
 パイプの中へそう云うと、蓋を閉めて、ペンを取り、記帳にかかった。
 七メートルに五メートルほどの、うす暗く湿っぽい部屋である。左と右に出入りのドア。彼がはいって来たのは右側のドアだから、いましがた二人の男女が出ていったのは左側のドアであろう。他の二方はコンクリートの壁で、いまデスクに向かっている彼のうしろの壁の上部に、金網張りの通気口が二つあるほか、窓らしいものがないのは、ここが地下室であることを示していた。――部屋の中でいちばん眼につくのは、彼の掛けている大きなデスクであるが、それは彼のものではない。彼のデスクは通気口のある壁際にあり、電…

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