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鼓くらべ
つづみくらべ
作品ID57677
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社
1983(昭和58)年6月25日
初出「少女の友」1941(昭和16)年1月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-02-14 / 2022-01-28
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 庭さきに暖い小春日の光が溢れていた。おおかたは枯れた籬の菊のなかにもう小さくしか咲けなくなった花が一輪だけ、茶色に縮れた枝葉のあいだから、あざやかに白い葩をつつましく覗かせていた。
 お留伊は小鼓を打っていた。
 町いちばんの絹問屋の娘で、年は十五になる。眼鼻だちはすぐれて美しいが、その美しさは澄み徹ったギヤマンの壺のように冷たく、勝気な、驕った心をそのまま描いたように見える。……此処は母屋と七間の廊下でつながっている離れ屋で、広い庭のはずれに当り、うしろを松林に囲まれていた。打っている曲は「序の舞」であった。
 白い艶やかな頬から、眉のあたりまでぽっと上気しているが、双の眸は常よりも冴えて烈しい光をおび、しめった朱い唇をひき結んで懸命に打っている姿は、美しいというよりは凄じいものを感じさせるし、なにか眼に見えぬ力で引摺られているようにも思えた。
 鼓の音は鼕々と松林に反響した。微塵のゆるみもなく張り切った音色である。それは人の耳へ伝わるものでなくて、じかに骨髄へ徹する響を持っていた。
 曲は三段の結地から地頭となり、美しい八拍子をもって終った。……お留伊は肩から小鼓を下すと、静かに籬の方を見やって、
「そこにいるのは誰です」
 と呼びかけた。……一輪だけ咲き残った菊の籬の蔭で誰か動く気配がした。そして間もなく、一人の老人がおずおずと重そうに身を起した。ひどく痩せた体つきで、髪も眉毛も灰色をしている。身なりも貧しいし、殊に前跼みになって、不精らしく左手だけをふところ手にした恰好が、お留伊には忘れることの出来ないほど卑しいものに感じられた。
「おまえ何処の者なの、二三日まえにもそこへ来たようだね、なにをしに来るの」
「申しわけのないことでございます」
 老人は嗄れた低い声で云った。「……お鼓の音があまりにおみごとなので、ついお庭先まで誘われてまいりました。お邪魔になろうとは少しも知らなかったのでございます」
「鼓の音に誘われて、……おまえが」
 お留伊の眼は老人の顔を見た。
 加賀国は能楽が旺んで、どんな地方へ行っても謡の声や笛、鼓の音を聞くことが出来る。あえて有福な人々ばかりでなく、其の日ぐらしの貧しい階級でも、多少の嗜みを持たぬ者はないというくらいである。だからいま、そのみすぼらしい老人が鼓の音に誘われて来たと云っても、それほど驚くべきことではなかったし、お留伊が老人の顔を疑わしげに見詰めたのも、まるで別の意味からであった。
 お留伊は暫くして冷やかに云った。
「おまえ津幡の者ではないの、そうでしょう。津幡の能登屋から、なにか頼まれて来たのでしょう」
「わたくしは旅の者でございます」
「隠しても駄目、あたしは騙されやしないから」
「わたくしは旅の者でございます」
 老人は病気でもあるとみえて、苦しそうに咳きこみながら云った。「……生まれは福井の御城…

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