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つぼ
作品ID57685
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「講談雑誌」博文館、1940(昭和15)年10月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2025-05-14 / 2025-05-11
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 寛永十二年十一月の或る日、紀伊のくに新宮の町の万字屋という宿に、木村外記となのる中年の武士が来て草鞋をぬいだ。背丈のすぐれて高い、骨ぐみのがっちりとした、いかにも精悍なからだつきだし、浅黒い膚の面ながな顔にぐいと一文字をひいたような眉や、ひき結ぶと少しうけくちになる口もとや、そしてときどきひじょうに鋭い光りを放つ双眸など、すべてが逞しい力感に満ちているが、そういう風貌とは反対に着ている物も粗末だし、挙措も言葉つきも鄭重でものしずかだったから、心なく見る眼にはちょっと近づきにくいというだけで、ごく平凡な、ありふれた武家のひとりとしかうつらなかった。……食事のときにお島という婢が「お武家さまも本宮へご参詣でございますか」そう訊くと、木村外記という武士はそうだと頷いた。新宮は紀州徳川家の国老のひとり水野出羽守の所領(三万五千石)でその居城があり、まわりには熊野本宮、新宮、那智神社、補陀落寺、那智ノ滝など名所が多く、山川の風光も美しかったから、四季おりおりに探勝の杖をひく人が絶えない、夫木、玉葉、新古今などの歌集にもこのあたりを詠んだ秀歌がたくさん載っている。……こういう客は宿へ泊るときまったように名所まわりのあれこれを根問いするもので、婢たちもそれに答えてところ自慢をするのが愛相のひとつになっている、いまもお島は木村外記となのる客が熊野詣でをするというので、なにか訊かれたら知っている限りの話をしようと、給仕の盆を膝にしながら待ち構えていた。けれども相手はそうだと云って頷いたきりなにも云わない、黙ってひっそりと箸を動かしている、べつに肩肱を張っているわけではないが、そのしずかな、音ひとつ立てない食事ぶりは妙に厳粛な感じで、どうかすると尊い儀式でも見るような印象を与えられた。お島はちょっと膝を直したが、とうとう待ちきれなくなったとみえ、「お武家さまはこちらへはたびたびおいででございますか」とたずねた、客は眼もあげずにいや初めてだと答えたが、それなりまた黙って食事の終るまでなにも云わなかった。せっかく話の穂をむけるのにと、もともとしゃべることの好きなお島はいささかむっとしたようすで、やがて、膳部をさげていった。
 明くる日は朝からよく晴れた小春日だったが、木村外記は殆んど部屋にこもったきりで外出もしなかった、そして昏れがたからひどく気温が冷えはじめたと思うと、初更の頃からとうとう雪になり、夜明けじぶんには三寸あまりも積って、なお霏々と降りつのっていた、「おでかけあそばさないでようございました」お島はあいそ笑いをしながらそう云った、「昨日はお三人ばかり本宮へお立ちでしたが、これではさぞお困りでございましょう」外記は明けてある窓から降りしきる雪を眺めていたが「……雪の山路もいいものだ」と呟くように云ったきり、いつまでも窓外を見まもっていた。……このあたりには珍しく、…

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