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![]() なつくさせんき |
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作品ID | 57690 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社 1983(昭和58)年10月25日 |
初出 | 「講談雑誌」博文館、1943(昭和18)年3月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 北川松生 |
公開 / 更新 | 2025-08-16 / 2025-08-16 |
長さの目安 | 約 43 ページ(500字/頁で計算) |
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一
慶長五年(一六〇〇)六月のある日の昏れがたに、岩代のくに白河郡の東をはしる山峡のけわしい道を越えてきた一隊百二十余人のみしらぬ武者たちが竹置という小さな谷あいの部落へはいって野営をした。……かれらは馬標も立てず、旗さし物もかかげていなかった。みんな頭から灰をかぶったように埃まみれで、誰の顔にも汗の条が塩になって乾いていた。疲れきっているとみえてむだ口をきく者もなく、部落へはいるなりぱたぱたと地面へからだを投げだす者が多かった。部将は三十二三になる眼のするどい小柄で精悍そうなからだつきの男だったが、村へ着くとすぐ二人の副将をつれて村長の家をおとずれた、そしてそこを宿所にきめ、各隊の番がしらを呼び集めて野営の命令をだした。
隊士たちは静粛に列を解いた、甲冑や具足をとり草鞋をぬいで、谷川の畔りや噴き井のまわりへ汗を拭きに集った。そこにも此処にもたくましい裸が往き交い、水音がこころよくあたりにひろがったが、やっぱりむだな話しごえはどこにもおこらなかった。荷駄を曳いて来た二十余人の足軽たちは三カ所にわかれて兵粮をつくり、それを手ばやく各隊へ配ってまわった。日没のはやい谷峡はもうすっかり昏れて、空には星がきらめきだしていた、風のないむしむしする宵だった。蚊の群れが八方から寄ってくるなかで、武者たちは笑いごえもたてず兵粮をつかった、湯を啜るにも音を忍ばせるし、隣りの者と話をするのも声をひそめた、「済んだ者は腰兵粮をわけるから荷駄へ集れ」そう伝えてまわる使者の声もどこかしら押えつけたように低かった。そしてすっかり終ると、かれらは黙々として鎧や具足をつけ、新しい草鞋をとりだして穿いた、銃隊は火繩をかけ、槍隊は差したばかりの鞘をはねた、こうして今にも合戦を始めそうな支度をしてから、はじめてかれらは思い思いの場所で横になった。……このあいだに十人の兵が、部落のまわりへ立番(立哨)のために出てゆき、また副将のひとり相良官兵衛が二十余人の兵をひきいて、先鋒隊として夜道へ向って進発していった。すべてが手ばしこい順序と、ひきしまった沈黙のうちにおこなわれたので、つい隣りの村の住民たちでさえ、これだけの兵が野営をしているとは気づかずにしまったくらいであった。
竹置の部落はひっそりと夜を迎えた、平常と少しも変らない静かな夜だった、露をむすびはじめた叢のそこ此処から涌きあがってくるように虫の音が冴え、おちこちの森で鳴く梟のこえがきみのわるいほどはっきりと谷に木魂した。しかし時刻はまだそれほどおそくはなかった。かなり更けたと思われるのに、谷あいの下のほうで十時を打つ寺の鐘がきこえて来た、そしてその余韻がしずかに尾をひいて消えてしまうと、村長の家からそっと部将が出てきた、うしろには残った副将のひとりが、がんどう提燈を持ってついていた。
「今日はえらかったとみえてみんなよく眠っているな」…