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七日七夜
なのかななよ
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」 新潮社
1983(昭和58)年11月25日
初出「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1951(昭和26)年5月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2020-10-13 / 2020-09-28
長さの目安約 37 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 本田昌平は、ものごとをがまんすることにかけては、自信があった。
 生れついた性分もあるかもしれないが、二十六年の大半を、そのためにも修業して来た、といっても不当ではない。三千石ばかりの旗本の四男坊というだけで、わかる人にはわかると思う。そのころ世間一般に、
 ――二男三男は冷飯くらい、四男五男は拾い手もない古草鞋。
 などという失礼な通言があった。士農工商ひっくるめた相場で、なかでも侍はつぶしが利かないのと、体面という不用なものがあるだけ、実情はいちばん深刻だったと思う。
 その朝も昌平はがまんした。
「飯のことで怒るなんてあさましい、男が怒るならすべからく第一義の問題で怒らなくちゃいけない、たかが腹の減ったくらい」
 そんな独り言を云って下腹へ力をいれてみたり、深呼吸をして、机に向ってみたりした。机の上にはやりかけの写本がある、擬古体のごく嬌めかしい戯作で、室町時代の豪奢な貴族生活、特に銀閣寺将軍の情事に耽溺するありさまが主題になっていた。彼は数年来この種の書物を筆写し、不足な小遣を補なってきた。内職などは厳重に禁じられているし、ものがものだけに極秘でやらなければならないが、手間賃の割がいいのと、自分も艶冶な気分が味わえる点とで、ちょっと一挙両得的な仕事だったのである。
「二日や三日食わなくったって、人間なにも死ぬわけじゃあない」
 昌平は筆写にかかった。
「知らせて来るまでひと稼ぎやるさ」
 だがいけなかった。手が震えて字がうまく書けない。火桶には螢ほどの残り火があるばかりだし、腹は頻りにぐうぐう鳴りだす。おまけに写している文章は、銀閣寺将軍が酒池肉林の大饗宴をやっているところで、忍耐を持続するには極めて条件が悪かった。
「ちぇっ、いったいあいつら、なにをしてるんだ」
 彼は筆を措いた。この頃は朝食を知らせに来るのがおそい、だんだんおそくなる傾向であるが、その朝はことにおそかった。
「べらぼうめ、なにが第一義だ」
 障子へ日のさしてきたのを見て、昌平はついにがまんを切らした。
「腹が減れば空腹になるのは人間の自然じゃあねえか、おれだって人間だ」
 ばかにするなと思いながら、少しは憤然として外へ出た。
 彼は侍長屋に住んでいる。横庭の霜を踏んで、台所へはいってゆくと、温かい飯と味噌汁の匂いが、むっと鼻におそいかかり、腹がぐうるぐうるると派手に鳴って、口の中へ生唾が溢れてきた。連子窓からさし込む朝日の光の下で、下女たちが食事をしている。昌平はぐっと唾をのみながら云った。
「私の飯はどうしたんだ、まだなのか」
 下女たちは一斉に箸を止め、黙って顔を見合せた。
 ――忘れたんだな。
 昌平はそう云おうとした。そのとき下女の一人が、「奥さまに伺がって来ます」と云いさまばたばたと廊下へ駈けだしていった。
「支度が出来たら知らせてくれ」
 どなりたいのを抑えて…

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