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野分
のわき
作品ID57699
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」 新潮社
1983(昭和58)年8月25日
初出「講談雑誌」博文館、1946(昭和21)年12月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-01-16 / 2021-12-27
長さの目安約 44 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「なにがそんなに可笑しいんだ」
「だってあんまりですもの」運んで来た燗徳利を手に持ったまま、お紋は顔を赤くして笑い続けた、「……板前さんがあんまりなんですもの」
「板前がどうあんまりなんだ」
「若さまが鯊のあらいって仰しゃったでしょう、ですからそう通したんですよ、本当にちゃんとそう通したのに、今いってみたらこうやって、爼板の上へ黒鯛をのせているんです」そこでまたさも堪らないというようにふきだした、「……澄ましてこうやって黒鯛を作ろうとしているんですもの、鯊と黒鯛とまちがえるなんてあんまりだわ」
「ばかだな、それがそんなに可笑しいのか」
 こう云って又三郎はもの憂げに盃を口へもっていった。……その夜、屋敷へ帰って寝所へはいってから、又三郎はふいとそのことを思いだし、ひとりでくすくす笑いだした。つまらないことをあんなに笑うお紋が可笑しくなったのだ。顔を赤くして片頬にえくぼをよらせて、くるしそうに笑いこける娘の姿も、ありありと眼に浮んだ。……後から考えると、それがお紋という者に眼を惹かれる、最初のきっかけだったのである。
 蔦萬というその料理茶屋は、脇屋五郎兵衛という留守役の老人の案内で、一年ほどまえに知って以来の馴染だった。それは両国橋の広小路を南へさがった米沢町の地はずれにあり、すぐ前に薬研堀の水が見えるし、左どなりは石町のなにがしとやらいう太物問屋の隠居所で、松の多いその庭と接しているため、鄙へでもいったような静かな環境をもっていた。茶屋の構えも小ぢんまりしていた。二階も下も小部屋ばかりだし、けばけばしい飾り付はなし、簡素とおちついた気配りがゆき届いていた。主人の萬吉はもと幕府の配膳方に勤めていたそうで、庖丁ぶりもよそとは違っていたし、女房のお蔦――蔦萬はつまり夫婦の名を取ったものだ――の好みだろう、女中たちもしっとりとした温和しい性質の者ばかりだった。したがって客はたいてい武家か、町人でも静かに酒さかなを楽しむという人たちが多かった。……彼にはそういう静かなおちついた雰囲気だけで充分だった、自慢らしい割烹も酒も二のつぎだった。誰にも煩わされず、独りで勝手に酒を啜り、ぼんやりもの思いに耽ることができれば他に望みはなかった。お紋は彼の受持のようで、給仕にはたいてい彼女が出たけれど、彼にとっては顔を覚えているという程度で、名も知らず、当人に対してもまるで興味などなかった。もしそんなきっかけがなくて過ぎたら、やがて蔦萬にも遠ざかったであろうしお紋という者も知らずに済んだに違いない、ずっと後になって、又三郎はそう考えては、独りで悲しげに呟いたものである。「本当に、あのときあんなきっかけさえ無かったら」と。
 まえの事があってから、お紋はずっと狎れたようすを見せ始めた。彼のほうからも気軽に話しかけるようになった、「鯊と黒鯛」とか、「あんまりだ」などという言葉が二…

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