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橋の下
はしのした
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社
1982(昭和57)年10月25日
初出「小説新潮」新潮社、1958(昭和33)年1月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-01-25 / 2020-12-27
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 練り馬場と呼ばれるその広い草原は、城下から北へ二十町あまりいったところにある。原の北から西は森と丘につづき、東辺に伊鹿野川が流れている。城主が在国のときは、年にいちどそこで武者押をするため、練り馬場と呼ばれるようになったと伝えられている。
 いま一人の若侍が、その草原へはいって来た。月は落ちてしまって見えない、空はいちめんの星であるが、あたりはまだまっ暗で、原の南東にある源心寺の森がひどく遠く、ぼんやりと、墨でぼかしたようにかすんでいた。
「少し早かったな」とその若侍は呟いた、「しかしもうすぐ明けてくるだろう」
 彼は周囲を眺め、空を見あげた。年は二十四五歳で、眼鼻だちのきりっとした顔が、寒さのためであろうか、仮面のように硬ばって白く、無表情にみえた。彼は東の空を見やり、それから首を振った。
「いや、そんな筈はない」と彼は呟いた、口は殆んど動かず、誰かほかの者が呟くように聞えた、「間違える筈はない、たしかに七つの鐘を聞いて起きたのだ、たしかに七つだった」
 彼は自分をおちつかせようとして、腹に力をいれた。そしてゆっくりと、往ったり来たりし始めた。きっちりとはいた草鞋の下で、冰った土や枯草がみしみしときしみ、そこから寒さがはいあがってきた。寒さは足をはいのぼって腹にしみとおり、躯の芯からふるえが起こった。彼はまた東の空を見あげたが、そこには朝のけはいさえなく、さっきよりは一段と星が明るくなったように思えた。
 その若侍のおちつかない動作は、眼に見えないなにかに追われているか、または追いかけているようにみえた。白く硬ばった顔は硬ばったままで、感情の激しい動揺をあらわしているようであり、歩きまわる足どりや、絶えまなしに左右を見やる眼つきには、追いつめられたけものが逃げ場を失ったときの、恐怖にちかい絶望といった感じがあらわれていた。
「なにを、いまさら」と彼は呟いた、「もう考える余地はないじゃないか、これでいよいよけりがつくんだ、もうなにも思い惑うな、なんにも考えるな」
 腹部から胸のほうへと、ふるえが波を打ってこみあげ、歯と歯がこまかく触れあった。彼は歯をくいしばり、足に力をこめて歩きまわった。やがて、源心寺で鐘が鳴りだした。彼はうわのそらで聞いていたが、ぼんやり七つ(午前四時)かぞえたのでわれに返った。
「七つじゃないか」と彼は云った、「捨て鐘をべつにして、たしかに七つだった、すると刻を間違えたのか」
 家で聞いた刻の鐘が七つだと思ったが、それではあれは八つ(午前二時)だったのか、と彼は思った。空のもようでみても、いま七つが正しいらしい。約束の六つ半まではたっぷり三時間ちかくある。ばかな間違いをした、あがっていたんだな、と彼は思った。
「どうしよう」寒さのためにふるえながら、彼は自分に問いかけた、「帰って出直すわけにもいかない、そうはできない、といって、…

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