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花咲かぬリラ
はなさかぬリラ
作品ID57702
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」 新潮社
1983(昭和58)年8月25日
初出「新青年」公友社、1946(昭和21)年5月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-08-17 / 2022-07-27
長さの目安約 38 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 軍服を着た肩のたくましい背丈の眼だって高い青年が、大股のひどく特徴のある歩きつきで麻布片町坂を下りて来た。片手に鞄を持ち、右の肩に大きくふくらんだ雑嚢をひっ掛けている、鞄にも雑嚢にも筆太の無遠慮な字で麻川来太と書きなぐってあるが、その特徴のある歩きぶりと体つきとが似合っているように、そのなぐりつけたような名の文字と風貌ともよく似ているので、注意して見る者にはちょっと失笑したくなるような印象を与える。……坂の途中で彼は左へ折れた、そこは閑静な中流の住宅街で、たいてい同じような門と塀をとりまわし、樹の多い庭や、古びたつつましやかな、しかし住み心地の良さそうな家構えなど、みなどこかに共通点のあるのが、その街筋ぜんたいにおちつきと静かさを保たせている。……麻川来太は曲がった角から三軒めの家を訪れた。野茨の低い生垣の門を入ると洋風の玄関があり、春の光のいっぱいにさしているその片隅に鸚鵡の籠が置いてあった。
「よう、生きていたな」彼は鸚鵡に話しかけながら呼鈴を押した、「……おまえが生きているくらいなら皆さん大丈夫だろう、どうだ、今でも豆腐屋をやるか」
 扉が明いて中年の婦人が顔を出した、そして「まあ来さん」と云って片手で自分の胸を押えた。来太は右の手でひょいと一種の身振りをし、唇を上へ押し上げるようにしながらにやっと笑った。眉も眼も少し尻下がりの、角張ったがっちりとした顔は、そのままでも相当に愛嬌があるが、笑うとまるであけっ放しな腕白小僧のような顔つきになる。
「まあ来さん」と、婦人はもういちど息を吸い込むように叫んだ、「……あなたお帰りになったの、ご無事だったんですか」
「ええ生きて帰りました」
「まあ、それはまあ、それなら電報くらい打っておよこしになればいいのに、とにかくまあお上がりになって」
「お邪魔します、しかし二時間しか余裕がありませんからどうか構わないでください」
「はいはい承知いたしました」婦人は来太の鞄を受け取りながら振り返って呼んだ。
「由利さん、来太さんがお帰りになってよ」
 わあという声がした。そして来太が婦人の跡について廊下へはいると、向こうから十八くらいになる少女がとびだして来た。白いスウェターの胸が固く張り切って短めのスカートから日焼けのした健康な脚がぬっと伸びている、頬骨は高く、眼は細く、口は大きくて美人という型ではないが、誰の眼にも愛くるしく見られる顔だちの一種である。
「まあ生きていたの来さん、ほんとう?」
「こんなはずじゃなかったんだがね」
「いいわよ堪忍してあげるわ」由利はいきなり手を伸ばして握手を求めた、「……その代わりあたしをお嫁にもらってよ」
「あ痛、このごろの庭球にそんなルールでも出来たんですか奥さん」
「しようがありませんよ悪くなるばかりで、さあこちらがいいでしょう」
 通された部屋は十畳の客間だった。この家の主人…

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