えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
ばちあたり
ばちあたり |
|
作品ID | 57711 |
---|---|
著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」 新潮社 1982(昭和57)年6月25日 |
初出 | 「小説新潮」新潮社、1960(昭和35)年1月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 北川松生 |
公開 / 更新 | 2022-11-27 / 2022-10-26 |
長さの目安 | 約 46 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
一
私をみつけるとすぐに、弟の啓三は例のとおり大きく手を振った。私は気がつかないふりをして、三番線のプラット・ホームのほうを見ていた。啓三は近よって来ると、これまた例の如く私の肩を叩いた。彼の体から香水が匂った。
「早かったね」と啓三が云った、「病院のほうはいいの」
私は黙って頷ずいた。
「この暮になってひどいよ、おれにとっちゃあ一時間が何万円にもつくときだからね」と啓三はなめらかに云った、「往復するだけでも二日だぜ、もしものことがあっても一日しきゃ日は取れないんだ、一日だな、一日以上は絶対にだめなんだ、おふくろも罪なときに罪なことをするよ」
私は黙って階段口のほうを見た。啓三は母を責めているのではない、一時間が何万円にもつくという、自分の言葉の裏書きをしているにすぎないのだ。
「こんなところに立っていてもしようがない」と啓三が云った、「中へはいって坐ろうじゃないの」
「室町がまだ来ないんだ」
「いいよ、車がきまっててシート・ナンバーがきまってるんだもの、そうでなくったってあの女傑がまごつきますかさ、わからなければ駅長を呼びつけるくちですよ、駅長おどろくなかれって、ね」
私は彼に「乗れよ」と云った、発車時刻が迫っていて、歩廊にいる客たちは次つぎと車内へはいってゆき、私たちのまわりには見送りの人や、走って来る乗客たちがまばらに見えるだけであった。
「ねえ、どう思う」と啓三は急に声をひそめて云った、「キトクっていう電報はこれで三度めだろう、あんたは三度とも診察しているでしょう、それでこんどはどうだと思う」
私は穏やかに云ってやった、「きみは香水のスプレーは丹念に握るくせに、髭を剃ることは忘れるらしいな」
「あんたにはわからないポケットさ」啓三は右手で口のまわりを擦った、「このぶしょう髭を少し伸ばしてるのが、当代仲買人のはやりっ子っていう看板なんでね、いまどき髭をきれいに剃ってるなんてのはバーテンダーか、信託銀行の支店長かベル・ボーイ、やあ、女傑があらわれましたぜ」
啓三は右手をあげて振りながら、階段口のほうへ走っていった。姉の順子は、トランクといいたいほど大きなスーツ・ケースを、両手で提げて持っていた。私は啓三がそれを受取るのを見て、車室の中へはいった。――十二月十八日という時期のためか、それとも午前八時なにがしという半端な時間のためか、その特二の車内は客も三分の二くらいしかなかったし、私たちのまわりには、一と組の若い夫婦らしい二人が、通路を隔てた向うの席にいるだけであった。
啓三が姉といっしょにはいって来た。姉は私の前のシートに坐り、啓三はスーツ・ケースを網棚にあげ、窓を下一段だけあけて、私の隣りに坐った。
「喪服を持って来たんで重くなっちゃったの」と姉はマフラーをとって啓三に渡しながら、誰にともなく云った、「啓ちゃんこれもあげといて、――タク…