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![]() ぶけわらじ |
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作品ID | 57714 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社 1983(昭和58)年10月25日 |
初出 | 「松風の門」操書房、1948(昭和23)年6月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 北川松生 |
公開 / 更新 | 2025-01-14 / 2025-01-14 |
長さの目安 | 約 37 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「あの方はたいそう疲れていらっしゃるのですね、お祖父さま、きっとずいぶんお辛い旅が続いたのでしょう、わたくしあの方のお顔を拝見したときすぐにそう思いました」若いむすめの艶やかな声が、秋の午後のひっそりとした庭のほうから聞えてくる、「……並なみのご苦労ではないのですよ、あのお眼の色でしんそこ疲れきっていらっしゃるのがわかります、わたくし胸が痛くなりました、本当にここのところが痛くなりましたの、お祖父さま」
「その土を均すのはお待ち、朽葉を混ぜて少し日に当ててからにしよう」老人のしずかな声がそう云った、「……今年あんなに虫が付いたのは鋤返すとき日に当て方が足りなかったのだろう、可哀そうにこっちの蕨はみんな根がこんなになってしまった」
「ああそれはお捨てにならないで下さいまし、わたくし糊を拵えますから」
宗方伝三郎はうとうとまどろみながら、遠い思い出からの呼び声のように二人の会話を聞いていた。なかば覚めかかって、ああおれはこの家に救われているんだなと思い、また夢うつつのように眠ってしまう、ともかくも今は人の情に庇われているという安心と、身も心も虚脱するような疲れとで、起きあがる力さえ感じられないのであった。老人は口数の少ない人とみえてときどきさりげない返辞をするだけだが、娘は話し好きらしく殆んどひっきりなしに声が聞えてくる、それがいかにも明るく爽やかだし、話題はどうでも話してさえいれば楽しいという風で、聞いているほうがしぜんと頬笑ましくなる感じだった。――心ゆたかに育ったんだな、伝三郎は夢ごこちになんどもそう思った、きっと性質もやさしいむすめだろう。
呼び起されて本当に眼が覚めたのは昏れ方であった。粥が出来たので此処へ持って来るから顔を洗うようにと云う。伝三郎は起きて頂戴すると答えて夜具をはねた。……娘に案内されて裏へ出ると、若杉の垣の向うはうちひらけた段畑で、その畑地の果てるかなたには、峡間に夕雲のわき立った重畳たる山々が眺められる、垂れさがった鼠色の雲にはもう残照もなく、耕地も森も、薄の白く穂立った叢林も、黄昏のもの哀しげな光りに沈んで、しずかに休息の夜の来るのを待っているようにみえる、なんというしずかさだろう、伝三郎は切なくなるほどの気持で心の内にそう呟いた。
「そんなにご熱心にどこをごらんなさいますの」娘は半[#挿絵]へ水を汲みながらそう問いかけた、「……ああ二俣山を捜しておいでなさいますのね」
「二俣山、……ええ、そうです」伝三郎はちょっとまごついた、「そうです、それはどちらのほうですか」
「もっとずっと左のほうでございます、いちばん手前にある低い山のずっと左の端に、こんもりと木の繁った小高い処が見えますでしょう、あれが二俣のお城跡でございます」そう云って娘はふと声を曇らせた、「……わたくしあのお城跡を見ますと、いつも岡崎さまのお痛わしい御最期…