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日日平安
にちにちへいあん
作品ID57728
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社
1983(昭和58)年1月25日
初出「サンデー毎日臨時増刊涼風特別号」1954(昭和29)年7月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-06-22 / 2022-08-26
長さの目安約 58 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 井坂十郎太は怒っていた。まだ忿懣のおさまらない感情を抱いて歩いていたので、その男の姿も眼にはいらなかったし、呼ぶ声もすぐには聞えなかった。三度めに呼ばれて初めて気がつき、立停って振返った。
 道のすぐ脇の、平らな草原の中にその男は坐っていた。松林と竹藪に挾まれたせまい草原で、晩春の陽がいっぱいに当っている。浪人者とみえるその男は、坐って、着物の衿を大きくひろげて、蒼白く痩せたひすばったような胸と腹を出していた。月代も髭も伸び放題だし、垢じみた着物や袴は継ぎはぎだらけで、ちょっと本当とは思えないくらい尾羽うち枯らした恰好である。年は二十八か九であろう、顔は蒼黒く、頬はげっそり落ち窪んでいるし、顎は尖って骨が突き出ているようにみえた。
「呼んだのは貴方ですか」
「そうです」とその男は頷いた、「――ちょっとお願いがあったものですから」
 十郎太はそっちへ戻った。相手の男は左の手で腹(そのむき出しになっている)をなでながら、右手に持っている抜身の脇差をひらひらさせた。もちろん、切腹をしようとしているのだということは明らかである、けれども十郎太は気がつかなかった。彼の頭はまだ怒りのためにいっぱいで、他人の事に関心をもつ余地などなかったのである。
「用はなんですか」
「えへん」とその男はまた脇差をひけらかし、それからちょっと媚びた眼で十郎太を見た、「まことに申しかねるが、懐紙をお持ちなら少々お分け下さるまいか」
 十郎太は黙ってふところから懐紙を出した。相手はそれを受取ると、礼を云いながら、すばやくその紙で抜身の七三のあたりを巻いた。十郎太はそれでもう用はないと思ったのだろう、そのまま道のほうへ去ろうとした。そこで男はあわてたようすで、うしろからまた呼びとめた。
「その、まことになんですが、その」
「まだなにか用ですか」
「はあ、じつはその」と男は云った、「――ごらんのとおり私は、切腹しようと思うのですが」
「そうですか」と十郎太が云った。
「そうなんです」と男が云った、「――それであれです、じつに恐縮なんですが」
「介錯をしてくれとでもいうんですか」
「そうです、つまり」その男は頷いた、「――もし願えたら介錯をお頼みしたいんですが」
「いいでしょう」
 十郎太は戻って来た。その男は十郎太を見た。十郎太は刀を鞘ごと取り、下緒をはずして襷にかけた。それから静かに刀を抜き、鞘を草の上に置いて、身構えをした。その男は明らかに狼狽し、泣きそうな顔になった。
「貴方は本当に介錯するつもりなんですか」
「本当にとは」と十郎太がきいた、「――だってそう頼んだんでしょう」
「それは頼んだことは頼みました」と男が云った、「――けれども、だからといってそう貴方のように、そう安直になにされるというのは、ちょっと私のほうとしてどうかと思いますね」
「どうかとはどう思うんです」
「どうと…

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