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夫婦の朝
めおとのあさ
作品ID57732
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1941(昭和16)年3月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2024-12-06 / 2024-12-03
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 霜月のよく晴れた日であった。
 お由美は婢のよねを伴れて浅草寺に詣でたが、小春日和の、如何にも快い陽射しに誘われて、つい大川端の方へ足が向き、それから橋場の先まで歩いたので、帰りにはさすがに少し疲れ、茶屋町まで来てふと通りがかりの掛け茶屋へ休みに入った。
 舌を焦がすような渋茶を啜りながら、お由美は摘んで来た野菊の枝を揃えた。もう葉は霜枯れているのに、鮮やかな紫の三、五輪の花は、そのまま深い秋の色をとどめている。
 ――雄物川の岸にも咲いていた。
 ふと故郷の山河が眼にうかんで来た。
「きれいな色でございますこと」
 よねも眼を細めながら云った。
「秋らしくて、いい花ね。いちばん好きよ、秋田へ行くと一面にこれが咲いているの、雄物川という大きな川の堤なのよ……子供のじぶん親しいお友達と二人きりで、誰にも教えない約束をして、大事にしていた場所があったわ」
「あちらはずっと北国でございますか」
「そう、今じぶんはもう雪だわ」
 お由美は遠くを見るように眼を上げた。
 雪国で育った肌は絖のように白くひき緊って、眉つき眼許の淋しいなかに、飽くまで朱い湿った唇だけが、身内にひそんでいる情熱を結んでみせたかのように嬌めかしい、……江戸の下町で生立ったよねなどから見ると、それは妖しいほどの美しさであった。
「あの……もし」
 そう呼ばれてお由美が振返ると茶汲み女の一人が側へ来て、
「ちょっと是を」
 云いながら小さな紙片を差出した。
 なんの気もなく受取ってみると、二つ折にした中になにか書いてある、披いたお由美の眼へいきなり「新五郎」という署名がとびこんで来た。

 お話があります、供の者をお帰しなさい、不承知なら其処へ名乗って出ます。

 その短い文字はお由美の全身の血を凍らせた。息の止まるようなとは此事であろう。お由美は懸命に驚愕を抑えながら、素早くその紙片を丸め、
「分りました、これで」
 と銭入から夢中で、幾らとも知れず取出して女の手へ渡し、
「よね、参りましょう」
 そういって立上った。
 震える足を踏みしめながら二三十間行くと、尖ったお由美の神経は直ぐに、後から跟けて来る人の跫音を感じた。
 ……不承知なら其処へ名乗って出ます、そういう声を、すでに忘れて久しい男の蒼白い、眼の鋭い顔が歴々と思い出される。
「……ああ、よね」
 お由美はふと立止った。
「おまえの家はたしか、この近くではなかったかえ」
「はい、瓦町と申しまして此処から」
「宜いからね、おまえは家へ寄っておいで、私は出たついでにこれからお友達を訪ねます」
 口早に云って銭入を取出し、
「是で家へなにか買って行っておやり」
「……まあ、奥様」
「日暮れまえに帰って来れば宜いからね」
 そう云い捨てると、よねが口を[#挿絵]む隙もなく、もう足早に歩きだしていた。
 よねが怪しみはせぬかという心配よ…

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