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ひょう
作品ID57733
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社
1983(昭和58)年6月25日
初出「アサヒグラフ」1933(昭和8)年9月20日号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-09-20 / 2022-08-27
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 月見山で電車を下りると、いつもひっそりしている道の上に、ざわざわと人の動くのが見えた。正三はべつに気にもとめず、山手のほうへ大股に登っていくと、空地の角にある音楽家の住居で、近所から薔薇屋敷と呼ばれている邸の門前にも、音楽家の若い妻君を中心に付近の婦人たちが四五人集まって何かひそひそ話している。正三はその傍を通り過ぎるとき、音楽家の妻君が、
「宅では拳銃の弾丸を買いにやりました」
 と云っているのを聞いた。
「ただいま」
 庭先から挨拶しておいて、離屋になっている自分の部屋へあがると、間もなく甥の一政がやって来て、縁先から、
「叔父さん、大変ですよ」
 と大声で呼んだ。
「どうした」
「あのねえ須磨寺の豹が逃げたんです、人が二人たべられましたって」
「豹が逃げた――?」
 正三は何をいうかと思いながら、障子を明けて縁側へ出た。五歳になる一政は、好奇と恐怖の錯雑した表情で、
「本当です、小田さんとこではペスを鎖でつないでしもうた」
「お帰りなさい」
 嫂の純子が、母屋の縁先に立って、ふところ手をしたまま静かに声をかけた。正三は庭穿をつっかけて、一政の肩に手を回しながら母屋のほうへ行った。
「お風呂へお入りなさい」
「政ちゃんは?」
「僕もう入ってしもうた」
 云ってから、そっと母の眼を凝視て
「もう一度入ったろか」
 低い声で云いながら舌を出した。そして純子のきつい眼のこないあいだに、何やら喚きながら、隣との庭境のほうへ駈出した。

 正三の兄がアメリカで客死したのは二年前の夏であった。兄はX汽船会社の支店長をしていたのだが、赴任して三年めに拳銃で自殺をしてしまったのだ。原因は金銭上の問題であるともいうし、さる三流女優とのトラブルであったとも伝えられたが、結局のところ真相は知れずにおわった。
 嫂は兄の渡米と同時に、横浜にあった住居を神戸に移していた。表面の理由は本社が神戸にあるので、兄との通信に便利だということだったが、じつは正三一家の白い眼から遠退きたかったのである。正三たちの父は、初めから兄たちの結婚に反対であったうえに、結婚後の二人の派手な生活がことごとに癇に障ったらしい。もともと兄は学生時代から贅沢好きで、煙草は葉巻に定めていたし制服も四季それぞれ山崎に造らせなければ気に入らなかったようだ。いま正三が用いているネクタイなども、ほとんど大部分兄のお下りで、それも丸善から買ったのを二度か三度しめたきりでくれてしまうのだ。こうした兄の性格に、嫁でもとったら――という望みをかけていた父は、兄に負けぬ派手好きな嫂の暮しぶりをみて、一政の生れる前すでに、
 ――正一の家とは付合うな。
 と云わせてしまった。
 汽船会社の社員などに、父流の質素な生活を望むことは無理なのだ、ことに兄のようにとんとん拍子の出世をするような者には、生活の贅沢さくらいなんでもないはずな…

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