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武道無門
ぶどうむもん
作品ID57736
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「内蔵允留守」成武堂、1942(昭和17)年3月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2025-01-29 / 2025-01-26
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 宮部小弥太は臆病者であった。
 二十八にもなって、いまだに暗闇を独りで歩くのが怖かったり、夜半の上厠に怯えたり、他人の喧嘩を見るだけで震えたりするようでは、農夫町人としても臆病者の譏りはまぬかれないだろう。小弥太は小身ながら武士であった、然も寛永正保という、武家気質の最も旺盛な時代のことだから実に眼立った。……彼は物心のつく時分から、どうかしてもっと剛毅不屈な人間に成ろうとして、色々と苦心してみたのである。しまいには神社、仏堂に参籠までした。滝に打たれてもみたのである、けれど持って生れた性質はどうにもならなかったので、遂には自分でも諦めてしまった。
 彼は三河国岡崎藩、水野監物忠善の家臣で、先手組五十石あまりの小身者だった。然しその「小身者」だということが、彼にはどんなに有難かったか知れなかった。仮に三百石か精々五百石どころの家に生れたとしたらどうだろう、彼にはそう考えるだけで身震いが出た。そして自分の軽い身分と、眼立たない境遇とを振返ってみて、心から安息を感ずるのであった。
 正保四年二月、小弥太は同家中の番頭格を勤める橋本作左衛門の娘お八重と祝言を挙げた。きわめてあたりまえな、平凡な結婚であった。お八重は二十歳で、容姿も才も良人に似合いの温和しい内気な娘だったが、ただ毎もその顔つきに「覚悟はできております」とでも云いたげな表情が据わっていた。静かな、慎ましやかな生活が続いた。口数は寡ないが細かいところまで気のゆき届いた温かい妻の愛情は小弥太の一日一日を新しい充実した悦びに満たして呉れた。――己にもこんな仕合せが恵まれたのか、本当にこの仕合せは己のものだろうか。時にはそう思って不安を感ずるほど、小弥太の生活は幸福なものであった。……こうして五十日ほど経った、四月はじめの或る日、お城から下って来た良人の顔が、常になく蒼白いのに気付いたお八重は、着替えを手伝いながらそっと訊いた。
「どうかあそばしましたか」
「……どうして」小弥太は吃驚したように振返った、「どうかしたように見えるか」
「たいそうお顔色が悪うございますから」
「そうか、蒼いか」小弥太は溜息をついた、それから落着かぬ様子で坐りながら、「実は大変な事が出来た」と低い声で云った、「おまえは知らぬかも知れぬ、去年五百石で新規お召抱えになった、河原勘兵衛という人がいる、……今日お城でその人と間違いを仕出来してしまった」
「どういう事でございます」
「拙者の迂濶だった、二の曲輪ですれ違うとき、河原どのについして突き当ってしまったのだ」
 事実はそうでなかった。……勘兵衛は去年、江戸表で召抱えられた新参者で、力量武芸ともに抜群の男だったが、少しばかり慢心しているとみえ、岡崎へ来てからも、その傍若無人な振舞いで、家中の人々から嫌われていた。それがいつか小弥太の評判を聴いたのであろう。彼を見る度になにかか…

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