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へちまの木
へちまのき
作品ID57737
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」 新潮社
1981(昭和56)年12月25日
初出「小説新潮」新潮社、1966(昭和41)年3月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2021-05-20 / 2021-04-27
長さの目安約 60 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 房二郎が腰を掛けたとき、すぐ向うにいたその男は、鰺の塩焼を食べながら酒を飲んでいた。房二郎は酒を注文し、肴はいらないと云った。ふくれたような顔の小女は、軽蔑したような声で、酒一本、肴はいらないとさ、とあてつけがましい声でどなった。房二郎は慣れているらしく、知らん顔をしてい、その男はちょっとこっちを見たあと、骨までしゃぶった塩焼の皿を押しやり、芋汁を呉れと云った。
 その「沢茂」という店は小さかった。客が十人もはいれるかどうか、まだ木ぐちは新らしいが、ぜんたいにひどく気取った造りになっていた。給仕は二人の小女で、どちらも田舎出だろう、化粧をしていないのは当然だが、手足もまっ黒だし、赤ちゃけた髪もぼさぼさ、動作も荒っぽいという、まるで野放しの仔熊みたような小娘たちであった。
「年に一度か二度のこったが」脇のほうの飯台で職人ふうの、中年の男二人が、飲みながら話していた、「ついこのあいだまたやりゃあがった、ちっとばかりならいいが、敷蒲団から畳まで濡らしちゃってるんだ」
「富坊はまだ五つだったろう」と相手の男がきいた。
「今年で六つだ」とこちらの男が云った、「六つにもなるのにおねしょじゃあ済まされねえ、その蒲団を背負わせて、町内を三遍廻って来いと突き出してやった」
「おれにも覚えがあらあ、いやなもんだったぜ、みんなにゃあ見られるし、笑うやつもあるしな、富坊もさぞ辛かったろう」
「どうだかな」とこちらの男が云った、「町内を廻って来いと云ったのに、野郎、そのまんま神田までいっちまった」
 相手の男は聞き違えたと思ったように、どこだって、と反問した。
「神田よ、神田の多町までいっちまったんだ」
「だって」と相手の男が云った、「おめえのうちは川向うだろう」
「川向うも川向う、亀戸の先よ」
「へえー、そいつはおどろきだな」
「おどろきどころじゃあねえや、おれが帳場から帰ると、町内は迷子捜しの大騒ぎよ」
 房二郎はゆっくり酒を啜りながら、二人の会話を聞いて思わず微笑し、同時に、すぐ向うにいる男を仔細に眺めていた。男のとしは三十五六、中肉中背の平凡な躯つきだが、焦茶色の乾いた膚と、よく動くおちくぼんだ眼つき、そして、そこだけ際立って赤い唇などが、なんという理由もなく、房二郎の心をひきつけた。――芋汁というのは、とろろ汁の中へなにか白身の魚と青い物がはいっているらしく、男はその汁で酒を一本飲み、次いで、酒と甘煮を注文した。
「多町の自身番で貼り紙を出しているのを、町内の人がみつけてくれたのは、その明くる日のことさ」
「懲りたのは親のほうってわけか」
「みごとにしっぺ返しをくらったようなものさ」
 房二郎はまた微笑し、けれどもすぐに、眉をしかめた。その子は町内の人たち総出で捜しだされた。おれのうちはどうだろう、父や母や兄や姉たちは、おれを捜しているだろうか。いや、そうではあるま…

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