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暴風雨の中
あらしのなか
作品ID57740
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」 新潮社
1983(昭和58)年9月25日
初出「週刊朝日新秋読物号」朝日新聞出版、1952(昭和27)年9月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2021-11-14 / 2021-10-27
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 烈風と豪雨が荒れ狂っていた。氾濫した隅田川の水は、すでにこの家の床を浸し、なお強い勢いで増水しつつあった。昨日の未明からまる一日半、大量の雨を伴って吹きとおした南の烈風は、ようやくいまやみそうなけはいをみせ始めていた。まだ少しも弱まってはいないが、ときおり喘ぎのように途切れるし、空を掩って低くはしる雲の動きも、いくらか緩くなってゆくようであった。
 三之助は二階の六帖に寝ころんでいた。
 二階には部屋が三つあり、その六帖は東の端になっていた。間の襖があけてあるので、他の二部屋も見とおすことができる。そこには畳や襖障子や、その他の家具、箪笥や長持や火鉢や、なにかの箱などがぎっしり積み上げてあった。吹き飛ばされた雨戸の隙からさし込む光りが、それらの家具を片明りに、ほの暗く映しだしていた。それは階下から運びあげたものであった。この家の人たちはそれらの物を運びあげて、朝はやく、まだ暗いうちに逃げていった。
「悪くはなかった、これも一生だ」三之助は口の中で呟いた、「おれはおれなりに自分の一生を持ったんだ」
 縞の単衣の胸がはだけ、三尺帯がとけかかっていた。少し痩せてはいるが筋肉のよく緊った、精悍そうな躯つきである。顔は白っぽく乾いていた。こけた頬や骨ばった顎のあたりに、激しい疲労と弛緩の色があらわれていた。疲れきって虚脱しているようであった。なにもかも、身も心も投げだしたというふうにみえた。
「生れてきたことはよかった」こんどははっきりと呟いた、「生れてこないよりは、やっぱり生れてきたほうがよかった、飢えや、寒さや、辛い、苦しいことが多かった、そうだったか、……いつもおれは逃げだすことばかり考えていた、そしていつも逃げだした、逃げださなければもっと悪いことが起こっただろう、……こんどは逃げなかった、逃げだすことができなかった、そして、こうするほかに手はなくなった」
 彼の表情が変った。風と雨の音が家を押し包んでいた。乱打する太鼓の中にでもいるように、その荒れ狂う音が部屋いっぱいに反響した。三之助の眼は憎悪の光りを帯びた。唇も憎悪のために歪んだ。しかしその表情はすぐに消え、彼は頭をゆらゆらと揺って、眼をつむった。
「おれはこの腕でおぎんを抱いた」彼はまた呟いた。「おたいやお幸や、まさ公を抱いた。抱いたり撫でたり、殴ったこともあった。……あいつらは泣いたり、噛みついたり、爪を立てたりした。あいつらはおれのこの肩や腕に、爪や歯の痕をつけた。あいつらはこの頬ぺたや胸を、あいつらの涙で濡らした、なま温かい塩っからい涙で……おれはその温かさや塩っぽさを味わった」
 生れてきたからこそ、その味を知ることができたんだ。三之助はそう続けた。しかし、その呟きはあまりに低く、殆んど声にはならなかった。突風がするどく咆え、雨戸や羽目板へざッざッと雨を叩きつけた。まるで砂礫を叩きつける…

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