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孫七とずんど
まごしちとずんど
作品ID57743
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「講談雑誌」博文館 、1943(昭和18)年6月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2025-03-25 / 2025-03-19
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 烈風と豪雨の夜だった。遠江のくに浜松城の曲輪うちに建ちならぶ将士の家屋敷は、すさまじい雨と風に捲き叩かれていまにも揉み潰されるかと思われた。なかでも榊原小平太康政の屋敷は大手門をはいったすぐ東がわにあり、ことに風当りがひどかったとみえてさんざんなありさまだった、三棟ある侍長屋のうちまず二棟が倒された、康政の住居も廂をめくられ蔀を剥がれた、塀などはその跡もとどめないくらい吹きとんでしまった。家来たちは頭からずぶ濡れになり、闇をひき裂くような風に叩かれながら、罵り喚きつつ右往左往していた。……すると夜半すぎた頃になって「端のお長屋があぶないぞ」という叫びごえが聞えた。みんなが駈けつけてみると、なるほど風の煽りで板屋根が波をうちだしているし、長屋ぜんたいがみちみちと悲鳴をあげながら揺れたっている、「早く誰か綱を持って来い」「いやうしろからつっかい棒をしろ」口ぐちに叫びたてていると、長屋の端にある家の戸がぎちぎちと軋みながら内がわから明いた、そして中からぬっとひとりの侍が出て来た。
「や、や、なんだ」みんなびっくりしてとび退いた、あんまり思いがけなかったので、胆を潰したのである。家の中から出て来た男はきわめて漠然たる眼つきでみんなを見まわした、胸の厚い骨組みのたくましいみごとなからだである、眼も口も鼻も大きい、耳も大きい、眉毛もあざやかに黒ぐろと太い、雑作がなにもかも大きくできている、それが実に漠然たる感じでぬうっと立ちはだかったのは壮観だった。
「やあ孫七ではないか、おう孫七だ」ひとりがようやく相手を見わけてそう叫んだ、それがもういちどみんなを仰天させた、「本当に孫七だ、いったいきさまどうしたんだ」
「おれか、おれはどうもしないよ」
「どうもしないと云って、きさま今までこの中でなにをしていたんだ」
「寐ていたのよ……」
「あきれたやつだ、みろ、もう潰れかかっているぞ」
「……だから出て来たのよ」とかれは事もなげに云った、「つまり、寐ているところへ長屋が潰れると、あぶないからな」それからかれは大きな眼で宙を見あげ、手を額に当てながらおもむろに云った「雨だね」と。これがわが柿ノ木孫七郎である。
 榊原家の孫七に対して、酒井左衛門尉忠次の家来に石原寸度右衛門という人物がいた。元亀元年六月の姉川陣に、徳川家康は織田信長のたのみで先陣をつとめ、朝倉軍をひきうけて戦った。そのとき寸度は酒井忠次のさきてとして、朝倉軍の側面を衝くべく、稲田にはさまれた細い田道を一隊の兵とともに前進していった。するとそこへ信長がわずかな供をつれて馬で通りかかったが、このありさまを見ていきなり「なんだおまえたちは、じじばばが寺詣でもするように、田道を一列に並んでぶらぶらゆくやつがあるか、いま合戦のまっさいちゅうだぞ」とおそろしいけんまくでどなりつけた。
「おせきなさるな」寸度はびくともせずに…

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