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水戸梅譜
みとばいふ
作品ID57745
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「芸能文化」1942(昭和17)年11月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2025-07-17 / 2025-07-17
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 寛文五年の秋のある日、徳川光圀の水戸の館へ、貧しげなひとりの浪人ものが、仕官をたのむためにおとずれた。衣服も袴もつぎはぎのあたった木綿ものであったが、よく洗って折目がついていた、としは三十二三であろうか、頬のあたりに辛労のかげがみえるけれど、まぎれのない眉つきがひと眼をひいた、月代もきれいに剃っていた、執事の鈴木主税がかれに会った。
「旧主の名は申上げかねます」かれは作法ただしく云った、「わたくしはもと奥州のさる藩につかえておりました五百旗五郎兵衛と申す者でございます、さきごろ主家が御改易となり、わたくしもただいまは浪々の身の上でございます、それにつきまして、わたくしは御当家こそさむらいの御奉公つかまつるべき御家と、かねて心におたのみ申しておりましたので、かないまするなら御家中のお末になりとお召抱えねがいたいと存じ、ぶしつけながら押してお願いにまかり出たしだいでございます」御前までよろしく御披露をたのむと云って、かれは膝へ手を置いたまま低頭した。主税はなかばうわのそらで聴いていた。光圀が水戸家をついだのは寛文元年のことであるが、若いじぶんからそのすぐれた風格は世に知れわたっていたので、いよいよ水戸二代の宰相をついだとなると、風を慕って随身をたのむさむらいたちがひきもきらず、その応接のいとまにくるしむありさまであった。ただそればかりならよいが、なかには仕官をたのむのは口実で、本当はいくばくかの合力にあずかろうという浪人ものもいた。近頃ではむしろそういう者のほうが多いくらいだったので、筋のわからぬ者はたいてい些少の銀を与えてかえすことになっていた。
「また幸いわたくしには伜がございます」浪人は少し間をおいて云った、「当年まだ八歳の幼少ではございますが、性質もよろしくからだもごく壮健でございますから、やがてはお役の端にもあいたつべきかと存じます、憚りながらこれも御前までおとりつぎをおたのみ申します」うわのそらで聴いていた主税は、この言葉でちょっと眼をみはった。これまで随身をたのみに来た者は誰でもおのれの芸能を申立てはした、戦場における功名とか武芸の才とか、学問の能力とか、そういうことは申立てたが、自分に子供があると自慢をした者はなかった。――いったいこの男は本気かしらん。主税は少しばかりあきれて見返した。浪人はもちろんまじめだった。すこし不安そうではあるが、端座した姿勢は毅然たるものだった。しばらく待てといって主税は奥へあがった。
 光圀は小姓のものと碁をかこんでいた、そのとき三十八歳の壮年でまだ後年の円熟さには欠けていたが、そして名宰相としての世評にあやまりはなかったけれど、生れながらに水戸家の公達であったから、明敏英邁である反面に我儘で峻烈なところも多かった。……主税の言葉を聞き終ると、光圀はじっと碁盤のおもてを見おろしたまま、いつもほど銀をやってかえ…

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