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松風の門
まつかぜのもん
作品ID57747
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社
1983(昭和58)年6月25日
初出「現代」大日本雄辯會講談社、1940(昭和15)年10月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-10-13 / 2022-09-26
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 その洞窟は谿谷にのぞむ断崖の上にあった。谷は深く、両岸にはかつて斧を入れたことのない森がみっしりと枝を差交わしているので、日光は真昼のほんのわずかのあいだ、それも弱々しく縞をなしてそっと射し込むだけであった。そのうえ少し遡ったところに大きな滝があり、そこから吹下りて来る飛沫が絶えず断崖を濡らし、樹々の枝葉にあとからあとからと水晶のような滴の珠を綴るので、盛夏の頃でも空気はひどく冷えていた、洞窟はその谷に向って開いていた。高さは八尺ほどで奥行は二十尺ほどしかなかったが、入口が東南に面しているためにかなり明るく、また比較的によく乾いている。里人たちはそれを「白狐の窟」と呼んでいた。そして其処へ近寄ると思わぬ災厄に遭うと云い伝えられていたし、そうでなくとも一番近い村里から五里に余る嶮しい道を攀登らなければならないので、その付近にはほとんど人の姿を見ることが無かった。
 ある新秋の日、一人の若い武士が谿谷を遡って来てこの洞窟の前に立った。若いといっても三十にはなるであろう、輪郭の正しい切りそいだような頬と、やや眼尻の下った深い眼許がきわだっている。彼は大きく膨れた網の旅嚢を背負い、左手に厚く折畳んだ緋羅紗を抱えていた。どんなに困難な道だったか、高く秀でた額から衿首まで膏汗が流れていたし、草鞋も足袋も襤褸屑のように擦り切れていた。
「やはり、考えていたような場所だ」暫くのあいだ両岸の深い森と、断崖に支えられた底知れぬ谿谷を覗いていたが、やがて背負って来た荷物を下ろしながら呟いた「此処なら邪魔をされずに済むだろう」彼は洞窟の中へ入って荷を解きだした。
 その明る朝、まだ灰色の薄明が漸やくひろがり始めた時分、若い武士は既に起きて、洞窟の入口に近く静坐していた……骨太の逞しい足を半跏に組み、両手の指を組合せて軽く下腹に当て、半眼にした眸子でじっと壁面を瞶めたまま身動きもせず坐っていた。大滝の音は、音というより絶えざる震動となって谿谷に反響し、霧のように渦巻く飛沫は、ときたま颯と吹下りて来る風と共に、樹々の枝葉から滴となってばらばらと白雨の如く散り落ちた。……若い武士は直ぐに疲れた。
「ただ坐っているというだけでも困難なものだな」
 彼はそう呟きながら立った。そして首を捻曲げたり肩を揺上げたり、両腕を振廻したりして、暫く筋肉の凝をほぐしてから、ふと思出したように旅嚢を引寄せ、乾した棗の実を二つ三つ取出して口へ入れた。
 洞窟の入口は疎らに草で蔽われていて、その中に一寸ほどの深山竜胆が飛び飛びに可憐な花を咲かせていた。指尖ほどの小さな花ではあるが、光に透いて見える濃い紫が如何にも鮮かで、じめじめした暗鬱な周囲に美しい調和を与えている。そして昼なか、僅に日光の縞がこぼれかかる時になると何処からか一疋の蜥蜴がやって来て、その花蔭にじっと身を温めるのが見えた。若い武士がそれを…

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