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柳橋物語
やなぎばしものがたり
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社
1981(昭和56)年9月15日
初出前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者Butami
公開 / 更新2020-06-22 / 2020-05-27
長さの目安約 211 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

前篇









 青みを帯びた皮の、まだ玉虫色に光っている、活きのいいみごとな秋鯵だった。皮をひき三枚におろして、塩で緊めて、そぎ身に作って、鉢に盛った上から針しょうがを散らして、酢をかけた。……見るまに肉がちりちりと縮んでゆくようだ、心ははずむように楽しい、つまには、青じそを刻もうか、それとも蓼酢を作ろうか、歌うような気持でそんなことを考えていると、店のほうから人のはなし声が聞えて来た。
「いったいいつまでにやればいいんだ」
「無理だろうが明日のひるまでに頼みたいんだ」
「そいつはむつかしいや、明日までというのがまだ此処にこれだけあるんだから、まずできない相談だよ」
「そうだろうけれど、どうしても爺さんの手で研いで貰いたいんだ、そいつを持って旅に出るんだから」
「旅へ出るって」源六のびっくりしたような声が聞えた、「……おまえが旅へ出るのかい」
「だから頼むのさ、爺さんに研ぎこんで置いて貰えば安心だからな、無理だろうけれどそれでやって来たんだよ」
 庄吉の声だった。おせんは胸がどきっとした、庄さんが旅に出る、出仕事だろうかそれとも、そう思ってわれにもなく耳を澄ました。
「そうかい」と源六が返辞をするまでにはかなりの間があった、「……じゃいいよ、やっておくから置いてゆきな」
「済まない、恩に衣るよ爺さん」
 そしてその声の主は店を出た。おせんがその足音を耳で追うと、それが忍びやかに、けれどすばやくこの勝手口へ近づいて来た。おせんはそこの腰高障子をそっと明けた、庄吉が追われてでもいるような身ぶりですっと寄って来た。血のけのひいた顔に、両の眼が怖いような光を帯びておせんを見た、彼は唇を舐めながら囁くように云った。
「これから柳河岸へいって待っているよ、大事なはなしがあるんだ、おせんちゃん、来て呉れるかい」
「ええ」おせんは夢中で頷いた「……ええいくわ」
「大川端のほうだからね、きっとだよ」
 そう念を押すとすぐ庄吉は去っていった。おせんは誰かに見られはしなかったかと、……どうしてそんなことが気になるのかは意識せずに、……横丁の左右を見まわした。向う側にはかもじ屋に女客がいるきりで、貸本屋も糸屋も乾物屋もひっそりとしているし、主婦がおしゃべりでいつも人の絶えない山崎屋という飛脚屋の店も、珍しくがらんとして猫が寝ているばかりだった。障子を閉めたおせんは、笊にあげてある青じそを取って、爼板の上に一枚ずつ重ねて、庖丁をとりあげたまま暫くそこに立ち竦んでいた。なんと云って家を出よう。そんなことは初めてなので、怖いようでもあるし、お祖父さんに嘘を云うことが辛かった。けれども頭のなかでは庄吉の蒼ざめた顔や、思い詰めたようなうわずった眼や、旅に出るという言葉などが、くるくると渦を巻くように明滅し、彼女の心をはげしくせきたてた。……そうだ、おせんは爼板の上の青じそを見てふ…

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