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夕靄の中
ゆうもやのなか
作品ID57765
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」 新潮社
1983(昭和58)年11月25日
初出「キング」大日本雄辯會講談社、1952(昭和27)年2月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2020-12-14 / 2020-11-27
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 彼は立停って、跼み、草履の緒のぐあいを直す恰好で、すばやくそっちへ眼をはしらせた。
 ――間違いはない、慥かに跟けて来る。
 その男はふところ手をして、左右の家並を眺めながら、悠くりとこちらへ歩いて来る。古びた木綿縞の着物に半纒で、裾を端折り、だぶだぶの長い股引に、草履をはいている。仕事を休んだ紙屑買い、といった、ごくありふれた風態である。どこにこれという特徴はないが、とぼけたような眼つきや、ひどく悠くりと、おちついた歩きぶりには、隠すことのできない一種のものがあった。それは老練な猟犬のもつ、誤りのない判断と、嗅ぎつけた獲物は決して遁さない、冷静で執拗なねばり、という感じを連想させるものであった。
 ――こんな筈はない、ふしぎだ。
 彼は歩きだした。どうしたってそんな筈はない、江戸へ入ってから、いちども知った者には会わないし、彼が戻って来るということを、感づく者もない筈である。
 町角を曲るときそっと、眼の隅で見た。間合は少しひらいたが、男はやはりつけて来る。こちらへはまるで眼を向けず、依然としておちついた、きみの悪いほどせかない歩きぶりで、悠くりと跟けて来る。……そこは片側が武家屋敷、片側が町家であった。暖かかった冬の一日の、もうすっかり傾いた日ざしが、道の上に長く影をおとしている。黄昏には間のある、ふと往来の途絶えるいっとき。街ぜんたいがひそかに溜息でもつくような、沈んだ、うらさびしい時刻であった。
 ――おじけがついてる、こんな感じは初めてだ、ことによると危ない、年貢のおさめどきになるかもしれないぞ。
 しかし彼の表情は少しも変らなかった。歩く調子も決して乱れはしない、人の眼には平凡なお店者とみえるだろう、いくらか苦みばしった美男で、身だしなみのいい、若い手代といったふうに、……慥かに、これまで彼はついぞ、その自信を裏切られたことはなかった。それだけが、いまの彼には命の綱のようであった。――いつかはそうなる、誰だって、いつかいちどはそうなるんだ、が、今はいけない、少なくともあと一日、今夜ひと晩でもいい、あいつを片づけるまでは、それまではどんなことをしたって。
 大きな寺の門が見えて来た。
 上野の山内の森が、眩しく夕焼けの光りをあびている。すると寺は根岸の大宗寺だ。彼は右手をふところへ入れた、腹巻の中の短刀へ触るまえに、ひとさし指の爪際が鋭く痛んだ。棘を刺したのかと思って、出してみると、それはささくれであった。
 そうだ、あの寺の墓地は広かった。
 彼は指のささくれを舐めながら、まっすぐに(初めからそれが目的であったかのように)門前の茶店へはいっていった。
 暗くじめじめした、かなり広い土間に、茣蓙を敷いた腰掛が並び、壁によせて、萎れた菊や、樒や、阿迦桶などが見える。十七八の娘が一人、土間に莚をひろげて、せっせと小さな花の束を作っていた。
「花…

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