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雪と泥
ゆきとどろ
作品ID57767
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社
1983(昭和58)年1月25日
初出「オール読物」文藝春秋、1954(昭和29)年1月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-03-14 / 2022-06-14
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「好い男っていうんじゃあないんだ、うん、おとなしくって気の弱そうな性分が、そのまま顔に出てるって感じさ、まだ若いんだ」
「もういいかげんにおよしよ、おまえさん、それは罪だよ」おつねが頸筋へ白粉をぬりながら云った、「それに世間にゃそうそう鴨ばかりいるもんじゃないからね、いまにひどいめにあうよ」
「黙っててよおつね姐さん」ちよのが舌ったるい口ぶりで云った、「それで、ねえそれでどうしたの、おしの姐さん」
「たち昏みのまねをしてみせただけさ」
「どんなふうに……」
「ちょうど伝法院の門のところだったね、お勝ちゃんといっしょにうしろから追いぬいていって、ちょっと立停って、それからふらふらっとお勝ちゃんのほうへ倒れかかったのさ」
「それでたち昏みのように見えるの」
「こつがあるんだ」とおしのは帯をたたみながら云った、「腰の力をぬいて、片っぽの膝をこう、がくっとさせるのさ」
「さんざ精をだしたあとで始末をしに立つときみたいにかい」寐ころんでいるげれ松が云った、「ふん、久しくそんなおもいをしたことがないや、たまには始末をしに立つこともできなくなるほど精をだす相手に逢ってみたいね」
「お願いだから黙っててよ」ちよのは躯を捻りながら云った、「あたしおしの姐さんの話を聞きたいのよ、聞きたくってしようがないんだから、ごしょうだから邪魔しないでよ」
「聞いて真似でもしようってのかい」げれ松は小指の爪で歯をせせった、「ふん、そんな柄じゃないよおまえは、そういうことのできるのは、おしのさんのような縹緻と、おしのさんのように眼から鼻へぬける知恵がなくっちゃだめさ、おまえなんぞはそれより銭箱でも磨いて、ようくそこらを抜き揃えて、――」
 自分の綽名を証明するかのように、げれ松は思いきりあくどい表現で、ずけずけと露骨なことをまくしたてた。
 この六帖の部屋は北に向いているので、うす暗く、陰気であった。古ぼけた箪笥が二た棹、片方へ歪んだ茶箪笥、ふちの欠けた長持、塗の剥げた葛籠などが、幾つかの風呂敷包と共に壁にそって置いてある。節だらけでひび割れた柱には、湖竜斎の柱絵(みんなあぶな絵でありどれにもその一部に墨で黒くみだらな加筆がしてある)がべたべた貼ってあるし、派手な色柄の着物や下着をじだらくに掛け並べた壁にも、役者の大首や、縁起絵や、大阪のあぶな絵などが、貼られたまま裂けたり剥げかかったりしていた。畳の上にはぬぎすてた着物や、細紐や、足袋や、切れた三味線の糸や、まるめた紙屑などがちらばっているし、裸のままの三味線が二挺、針穴のいっぱいある行燈といっしょに、隅のほうに立てかけられたまま、埃をかぶっていた。そうして、北向きの格子窓の煤けた障子に滲んでいる十一月下旬の黄昏ちかい光りが、これらの物の上にいかにも佗しく、寒ざむとした色を投げていた。――格子窓の外は狭い路次で、どぶ板を踏んでゆく人の足…

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