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ゆだん大敵
ゆだんたいてき
作品ID57769
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「講談雑誌」博文館、1945(昭和20)年2月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2025-11-25 / 2025-11-24
長さの目安約 43 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 老田久之助が殿の御秘蔵人だということは、長岡藩で知らぬ者はなかった。
 本当の姓は郷田というのだが、それを老田と呼ぶところにもそのあらわれがある、つまり藩主の牧野忠辰は幼名を老之助といった、その幼名の一字を与えて、「そのほう一代に限り老田となのれ」という下命があって、それ以来そう呼ぶようになったのである。
 ……忠辰は飛騨守忠成の子で、七歳のとき母に亡くなられ、また間もなく父にも死別したので、十歳という幼い身で家を継いだ。大叔父に当る牧野忠清が後見となり、老臣たちが補佐をして藩政をみること五年、延宝七年十二月には十五歳で従五位下の駿河守に任官し、みずから七万四千石の政治の中枢に坐った。それもかたちだけではなく、実際に自分で政治を執ったもののようだ。
 家伝によると忠辰は牧野家の中興と称されるほどで、生れつき頴悟聡明だったし、老臣にも稲垣平助、山本勘右衛門、牧野頼母之助などという誠忠の士がいて師傅の役をつとめたから、天成の質が磨かれてはやくその光彩を発揮しだしたのであろう。
 十七歳で高田城請取という大役を幕府から命ぜられた時など、世人をおどろかすような機知と胆力をみせている。文治にも武治にも、生涯に遺した功績は大きく、他の模範となったものも少なくない。
 ……だがここでは忠辰を語るのが目的ではないから、われわれの主人公へ筆をもどすとしよう。
 久之助は郷田権之助という者の三男で、七歳のとき幼君(即ち忠辰)のお相手に御殿へ上った。いっしょに五人ほど上ったが、初めから久之助が特にお気にいりで、なにをするにもかれ無しでは済まず、またかれの云うことなら大抵は用いられるという風だった。
 しかしいちどだけこういうことがある、ある時なにを思いついてか、お相手の一人に向って、「犬になれ」と云いだした。その少年は厭ですと答えた。
「おれがなれと云うのだ、なれ」
「厭でございます、犬にはなりません」
 押し問答をしていると、久之助が忠辰に向ってそれは若君が御無理だと云った。
「そんな真似をしたら、某はこれからさき御奉公がならなくなります」
 そこにはお相手の少年たちがいたし、いちばん好きな久之助にそう面詰されたので、忠辰は怒って久之助に組付いた、そしてかれをそこへ捻じ伏せて拳で打った。久之助は避けもせずに打たれながら、
「若君が御無理だ、某が仰せに反いたのは尤もです、さむらいに向って犬になれと仰しゃる法はない」
 忠辰にだけ聞えるほどの声で、ゆっくりとそう云い続けた。
 誰かが知らせたのだろう、そこへお守り役の老臣で稲垣浅之助という老人が走せつけて来た。忠辰はすばやくはね起きた、久之助もやおら立上りながら、いきなり大きな声で、
「まいった、まいった」と叫んだ。
 するとかれの鼻からたくたくと衂血が流れだした。
「なにを御乱暴あそばすか」
 駆けつけて来た老臣がそう叱り…

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