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らん
作品ID57775
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」 新潮社
1983(昭和58)年12月25日
初出「家の光」1948(昭和23)年8月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-09-02 / 2022-08-27
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 秋の日はすでに落ちていた。
 机にむかって筆を持ったまま、もの思いにふけっていた平三郎は、明り障子の蒼茫と暗くなっていくのに気づいて、筆をおきながら、しずかに立って窓を明けた。
 北に面した庭には女ダケの荒れたやぶとまだ若木のスギ林がひろがっている。その樹下のもやのたちこめたような暗がりから、障子の明く音におどろいたのだろう、一羽のウズラが荒ら荒らしい羽音をたてて飛びたった。すると樹下の暗がりが、いっそう暗くなるように思えた。
「そうだ、会ってはっきり云おう」かれは低い声で、そうつぶやいた。「……もう、そうしても早すぎはしない」
 その時の印象はずっと後になるまで、あざやかに覚えていた。たそがれの鬱々としたスギ林も、ひっそりと垂れていた女ダケの葉むらも、飛びたったウズラの荒ら荒らしい羽音も、そして、ひとりごとのようにつぶやいた自分の低い声も……
 平三郎はその明くる日、須川生之助をおとずれた。生之助は、庭で蘭の手入れをしていた。さわやかな日光が、やわらげた黒土をぬくぬくと暖め、やや膚寒い風が、生垣のイバラの枯葉をふるわせていた。ここのほうが話しよい――平三郎はそう思った。生之助は、土まみれの手をこすり合わせながら立って来た。
「ことしはたしかだ。つぼみのつきが、しっかりしている。一輪はきっと咲かせてみせるよ」
「話があるんだ」平三郎は友の目を見まもりながら云った。「……いや、このまま聞く耳のないほうがいい。じつは松子さんのことなんだ」
 そして平三郎は話しだした。できるだけ、ことばや感情をかざらないように、自分の弁護をしないようにつとめながら……生之助は、だまって聞いていた。かれもいつかは、こういう時の来ることを予想していたのだ。びんのあたりが、やや青くなっただけで、思ったほどおどろいたようすはなかった。
「いちおう相談というかたちにすべきだが、おたがいの仲では、ゆずりあいになりそうだ。それでは気持が割りきれなくなる。どちらかが苦しまなければならないとしたら、初めから、いさぎよく、はっきりするほうがいいと信じた。これだけは、わかってもらいたいと思う」
 生之助はうなずいた。そして、手の土をはたきながら、しずかに空をふりあおいだ。雲のながれる高い空を、ゆっくりと渡っていく鳥がある。その鳥と雲との距離の渺々たる深さが、油然とかれの心に悲しい思いをかきたてた。
「松子には、おれが伝えようか」生之助は足もとへ目を落しながらこう云った。「……それとも自分で云うか」
「自分で云うほうがいいと思うけれど、あまり無作法だし、機会もないだろう。やっぱり、よい折をみて、そこもとから、話してもらうほうが自然ではないだろうか」
「そうかもしれない。いま風邪ぎみで寝ているようだから、起きたら……」
 ふたりはそれぞれの気持で口をつぐんだ。平三郎は心のよろめきを感じた。すべてを…

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