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夜の蝶
よるのちょう
作品ID57778
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社
1983(昭和58)年1月25日
初出「家の光」1954(昭和29)年6月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-05-20 / 2022-06-14
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 本所亀沢町の掘割に面した百坪ばかりの空地に、毎晩「貝屋」という軒提灯をかかげた屋台店が出る。貝を肴に酒を飲ませるのと、盛りのいいぶっかけ飯が自慢で、かなり遠い町内にも名が知られていた。
 車屋台のまわりを葭簀で囲い、その中に白木の飯台と腰掛が置いてある。屋台の鍋前にも腰掛があり、そこにも三人くらいは掛けられるから、客のたて混むときには十二、三人は入ることができた。――掘割の向うは公儀の御米蔵で、堀沿いにずっと土塀が延びているし、うしろは佐渡屋、丸伍、京伝などという大きな問屋が並んでいる。もちろん、みんな板塀の裏手が見えるだけで、夜になると燈も漏れず、あたりはひっそりと暗くなる。
 もう三月中旬だというのに、かなり冷える或夜のこと――
 午後から雨もよいになったせいか、夕方のたて混む時刻が過ぎると、「貝屋」は珍しくひまで、九時をまわる頃には、常連の飲む客が四、五人だけになった。担ぎ八百屋の竹造、大川端の土屋の船頭の勇吉、この二人は古い地つきの友達らしく、どちらも二十八、九になる。二人の前に、飯台を挾んで向合っているのは表の佐渡屋の蔵番で、年は五十六、七だろうか、本名は六兵衛というのだが、いつも酔っているので「ずぶ六」と呼ばれている。
 そのほかに二人、一人は初めて見る顔で、旅の者らしい、手甲脚絆に草鞋をはき、合羽を着て、頭に塵よけの手拭をかぶっている。年はもう三十六、七、これは鍋前に掛けて、主人の与平とぼつぼつ話しながら、焼き蛤を肴にゆっくりと飲んでいた。
 もう一人は、――これは飯台の端に酔いつぶれている。酔いつぶれているのだろう、腰掛から落ちそうな恰好で、飯台に俯伏し、だらしなく曲げた腕に顔をのせたまま動かない。垢じみた布子(木綿の綿入れ)によれよれの三尺をしめ、頭の毛は灰色だし、伸びている無精髭も灰色で、ぜんたいが云いようもなくみじめにうらぶれていた。
「待っておくれ、高次、どこへゆくの」
 外でそういう女の声がした。葭簀張りのうしろのほうらしい。「どこへゆくのよう」といい、そのまま聞えなくなった。
「旦那はこれから旅へいらっしゃるんですか」主人の与平が燗徳利を出しながら訊いた。「それとも旅からお帰りになったんですか」
「帰って来たんだが」とその客は少し上方訛りのある言葉で云った。「どうやら、またでかけなければならないようだ」
「この御近所ですか」
「いや、――」
 客は口ごもった。「この先に、この先の緑町二丁目に知ってる者がいたんだが、いってみたら引越しちまって、どこへいったかわからないんだ」
「あの辺は辰年(天明四)の火事で焼けましたからね」
 向うの飯台から竹造が云った。
「おやじ、酒だ、それから味噌煮を一つ」
「こっちは濁ったのをくれ」と勇吉が云った。「ついでに汁のお代りだ」
 旅装の客は自分の盃に酒をつぎ、ゆっくりとひと口すすって、大事…

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