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四日のあやめ
よっかのあやめ
作品ID57781
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社
1983(昭和58)年1月25日
初出「オール読物」文藝春秋新社、1954(昭和29)年7月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-06-28 / 2022-06-14
長さの目安約 39 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 二月下旬の寒い朝であった。
 六七日まえからすっかり春めいて、どこそこでは桜が咲きはじめた、などという噂も聞いたのに、その朝は狂ったように気温がさがり、家の中でも息が白く凍るほどであった。――早朝五時ちょっと過ぎたじぶん、千世が居間で鏡に向っていると、家士の岩間勇作が来て「来客です」と告げた。もちろん戸外は明るくなっているが、まだ客の来る時刻ではなかった。
「深松さまです、裏殿町の深松伴六さまです」と勇作は云った、「たいそうおいそぎのようすで、大事が起こったからすぐおめにかかりたい、玄関で、と申しておられます」
 大事という言葉が千世の耳に刺さった。良人の五大主税介はまだ寝ていた。
「わたくしがまいります」
 千世はこう答え、紙で手早く指を拭きながら立ちかけたが、ふと吃驚したように鏡の面を覗いた。いまそこに人の顔が映ったのである。自分のではない、蒼白く痩せた老婆の顔のようであった。
 ――いつかもこんなことがあった。
 覗いた鏡にはむろん自分の顔しか映っていない、千世は胸騒ぎを感じながら立ちあがった。
 深松伴六は玄関に立ってふるえていた。彼は七十五石の近習番で、年は二十五歳、良人より三つ若いが、二人は兄弟のように仲がよかった。――伴六はひどく昂奮していた。外が明るいので顔はよくわからないが、握っている両の拳がふるえているし、その声も平生とはまるで違うように聞えた。
「今日は非番なものですから、まだやすんでおりますけれど」
「ではこうお伝え下さい」と伴六は云った、「とうとう徒士組と衝突しました。場所は籠崎の大洲、時刻は六時です」
 千世はくっと喉が詰った。伴六はなお、自分はこれから土田と唐沢へまわるが、刻限が迫っているからすぐ起こしてくれるようにと云い、門の外へ出ていったと思うと、(そこに繋いでおいたのだろう)馬に乗って駆け去るのが聞えた。戞々というその蹄の音が聞えなくなるまで、千世は動くことができなかった。
 ――大変なことだ、大変なことになった。
 彼女はふらふらと立ちあがった。
「あの方たちは良人を頼みにしている」と彼女は呟いた、「良人もあの方たちが自分を頼みにしていることをよく知っている、早く起こして知らせなければならない」
 彼女は廊下を寝間の前までいったが、そこで急に立停った。何十人という多勢の人たちの、激しく斬りむすんでいる姿がふと眼にうかんだのである。ぎらぎらと閃光をとばす刃や、つんざくような叫喚や、そして、血に染まって倒れる姿までが、……その群の中に良人がいる、五大主税介の蒼白くひきつった顔がこちらへ振返る。いやそれは良人ではない、痩せた皺だらけの老婆の顔、いましがた鏡の面に映った(ように思った)あの老婆の顔である。千世は恐怖のあまり吐きけにおそわれ、その吐きけから逃げようとでもするように、寝間へはゆかないで自分の居間へ戻った。
 …

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