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樅ノ木は残った
もみノきはのこった |
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作品ID | 57785 |
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副題 | 02 第二部 02 だいにぶ |
著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第九巻 樅ノ木は残った(上)」 新潮社 1982(昭和57)年11月25日 |
初出 | 「日本経済新聞」1954(昭和29)年7月20日~1955(昭和30)年4月21日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 富田晶子 |
公開 / 更新 | 2018-03-12 / 2018-09-21 |
長さの目安 | 約 229 ページ(500字/頁で計算) |
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柿崎道場
新八の顔は血のけを失って蒼白く、汗止めをした額からこめかみへかけて膏汗がながれていた。躯も汗みずくで、稽古着はしぼるほどだったが、それでも顔は蒼白く、歯をくいしばっている唇まで白くなっていた。
躰力も気力も消耗しつくしたらしい。眼の前にいる柿崎六郎兵衛の姿もぼんやりとしか見えず、ただ六郎兵衛の木剣だけが、ぞっとするほど大きく、重おもしく、はっきりと見えた。
「打ちこめ、来い」と六郎兵衛が云った。
新八は夢中で打ちこんだ。相手の姿はそこになかった。新八は踏み止り、向き直って、絶叫しながら面へ胴へと、打ちこんだ。六郎兵衛は軽く躱すだけであった。新八の木剣は、どう打ちこんでも、六郎兵衛の躯へ一尺以上近くはとどかなかった。
道場の一隅で、野中、石川、藤沢の三人が見ていた。
「ひどいな」と石川兵庫介が呟いた。
「いつものことだ」と藤沢内蔵助が囁いた。
「このごろずっとあんなふうだ、あれは稽古じゃあない、拷問だ」
「なにかわけがあるな」
「もちろんだね」と内蔵助が囁いた、「われわれにはわからない、なにもかも秘密だ、あの少年は野中といっしょに住んでいるんだろう、野中は監視役らしい、どうやら逃げださないように監視を命じられているらしいが、だがどんな事情で、なんのために捉まえておくのかまるでわからない」
「わからないことはほかにもずいぶんある」と兵庫介が囁いた、「われわれの毎日の生活も、これからどうなるのか、あすの日どんなことが起こるか、なにもかもわからない、おれたちはまるで、柿崎に飼われている労馬のようなものだ」
「みんなで相談をし直そう」
「おれは幾たびもそう云った」と兵庫介は唇を曲げた、「この道場と、牝犬のように淫奔なあの三人の女と、柿崎の贅をつくした生活を支えるために、これ以上汗をかくのはおれはごめんだ、もうおれたちも考え直すときだと思う」
「みんなで相談をしよう、今夜にでもみんな集まるとしよう」
「だが、問題は食うことだ」
「むろん眼目はそのことだ」
「みんな食いつめたあげくのなかまだ、食えないことの辛さは、みんな骨身にこたえているからな」
「おれはあの人に会った」と藤沢内蔵助が囁いた。
兵庫介は訝しそうに彼を見た。
内蔵助は一種のめくばせをし、すばやく囁いた、「いつか西福寺へ来た人だ、しかしそれはあとで話そう」
新八は自分の袴の裾を踏みつけて、前のめりに転倒した。躯じゅうの力がなくなっていたから、朽木の折れるような倒れかたで、床板を叩く額の音が大きく聞え、彼はそのままのびて、いまにも死にそうに、絶え絶えに喘いだ。
「立て、新八、まだ稽古は終らないぞ」
六郎兵衛は冷やかに云った。彼は稽古着ではなく、常着に袴という姿で、それがかなり颯爽として見えたし、また、一面にはひどく冷酷な感じでもあった。
「起きろ」と云って六郎兵衛は、革足袋をはいた足…