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日本婦道記
にほんふどうき
副題萱笠
すげがさ
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社
1981(昭和56)年9月15日
初出「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者酒井和郎
公開 / 更新2019-10-23 / 2019-09-27
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「あたしの主人はこんど酒井さまのお馬脇に出世したそうですよ」
 厚い大きな唇がすばらしく早く動いて、調子の狂った楽器のような、ひどく嗄れた声が止めどもなく迸しり出た。
「……お馬脇といえば武士なら本陣の旗もとですからね、足軽としてはこれより名誉なことはありませんよ、なにしろ酒井さまから直にお声をかけて頂けるんですから、その刀を取れとか沓を持てとか、そういったようにね、それからまた銃隊をさがらせろ、なんという命令を伝えにもゆきます、そういうときは酒井さまのお口まねだから、銃隊のお旗がしらに向っても銃隊さがれとどなりつけるんですよ、――銃隊さがれ、ふだんならそんな口を利けばそれこそお咎めものでしょう、けれどもお口まねなんだから誰もなんとも云うわけにはいかないんですとさ」
「だってそういう軍令はお使番という役があって、お側の武士がつとめるのだと聞いていますよ」これもなかなか負けていない気質らしい、前の女を凌ぐ舌鋒でやりこめにかかった、「黒地四半の布に『使』と書いた指物を持つのが徳川さまお旗もとの使番のきまりです、そのほかの者がどうしたって軍令を伝えることはできません、それはもうたしかなことですよ」
「それは御本陣のことでしょう」さきの女は平然とやり返した、「……御本陣はそのとおりですよ、それはわたしも知っていますさ、けれどもお旗下の大将がたの陣にはお使番なんかありません。そんな役があるものですか、大将がみんなでそんなことをしたら、戦場がお使番だらけでごちゃごちゃになってしまうじゃありませんか、そんなことは決してありませんよ」
 遠江のくに浜松城の外曲輪に、お繩小屋といって軍用の繩や蓆を作る仕事場がある、板敷のうちひろげた建物で、今しも老若四五十人の女たちが藁屑にまみれて仕事をしていた。かの女たちは「お手の者」といわれて、徳川家康に直属する軍兵の家族だった、おなじ足軽でも諸将に属する者と「御手の者」では格が違い、かれらは曲輪うちの長屋に住んで、武具の手入をしたり軍用の雑具を作ったり、また戦時には後送される傷兵の世話をするとか、糧秣の補給を助けるなど、いろいろの役割の中心になって働くのである。……そのとき徳川家康は織田信長の軍と合体して、三河のくに長篠城を攻めていた、つまり浜松は留守城である。父を、良人を、子を、兄弟を、かの女たちはみなそれぞれ戦場に送っている、仕事をしながらの話も、しぜん合戦のことか、戦場に在る良人や兄弟の自慢などが多い、そして身分の軽いだけ云うことに遠慮がなく、自慢するにも威張るにも、思うとおりずばずばと云うので賑やかなこともいっそうだった。
 いちばん騒がしい女房たちとは別に、年頃の娘だけ十人ばかり集る仲間があった。ここでも蓆を編みながら、女房たちほどうちつけにではないが、許婚のこと兄弟のこと父のことなど、つつましさのなかに娘らしい憧れや夢…

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