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日本婦道記
にほんふどうき
副題尾花川
おばながわ
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社
1981(昭和56)年9月15日
初出「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年4月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者酒井和郎
公開 / 更新2019-05-21 / 2019-04-26
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「そういう高価なものは困りますよ、そちらの鮒を貰っておきましょう」
 書庫へ本を取りにいった戻りにふとそういう妻の声をきいて、太宰は廊下の端にたちどまった。相手はいつも舟で小魚を売りに来る弥五という老漁夫らしい、「そんなことを仰しゃらないで買って下さいまし、こちらの旦那さまにあがって頂こうと思って、ほかの家の前を素通りして持って来たんですから」諄々とそういうのが聞えた。
「とにかく鮒なら貰います、よかったらいつもほど置いていらっしゃい」
「さようでございますか、あてにして来たんですがな、少しでも買って頂きたいんですが、値段だってこちらさまで高いと仰しゃるほどじゃあございませんでしょう」
 老人はなおぶつぶつ云っていたが、間もなく、魚籠を担いで厨口の方から出て来た。そこから庭つづきに湖へ桟橋が架け出してある。その脇の枯蘆の汀にもやっている老人の小舟がみえた。
「おい弥五」太宰は廊下から呼びかけた、「今日はなにを持って来たのだ」
「ああ旦那さま」老人はびっくりして頬冠りをとった、「……なに珍らしくひがいが獲れたものですからね、御好物だと聞いたもんで持ってあがったんですが」
「それは久しぶりだな、どのくらいある」
「ほんの四五十もございますかね」
「みんな貰っておこう」妻のほうへ聞えるようにかれはそう云った、「……それから弥五、おまえ正月の鴨を持って来なかったようだがどうしたのだ」
「へえ、それはその、なんです」
 老人は困ったような顔つきで、もじもじと厨口のほうを見やった。太宰はやっぱりそうかという気持で思わず声が高くなった。
「約束したら持って来なければだめではないか、もう手にはいるあてはないのか」
「あての無いこともございませんが、なにしろもう数が少のうございますでね」
「四五日うちに客があるからなんとか心配して呉れ、骨折り賃はだすから、いいか」
 そう云って太宰は自分の居間へ戻った。
 この屋敷には珍らしく客の無い日だった。一人だけ鹿島金之助という宇都宮藩の青年がいるけれど、これは四十日ほどまえからの滞在でかくべつ接待の必要もない、こういうときこそゆっくり本も読もうと思い、久方ぶりに書庫から二三持ちだして来たのだが、さて机に向かってみると気持のおちつきが悪かった。……厨でことわったひがいをわざと呼び止めて買った自分の態度も、むろん不愉快であるが、このひと月あまりのうちにどことなく変ってきた妻の挙措が、あれこれと新らしく思い返されて心が重くなるのだった。
 かれの本姓は戸田氏である、近江のくに膳所藩の老臣戸田五左衛門の五男に生れ、三十歳のとき園城寺家の有司池田都維那の家に養嗣子としてはいった。妻の幸子はそのとき三十二歳だった、かの女も彦根藩の医師飯島三太夫のむすめで、幼少のとき池田家の養女となり太宰を婿に迎えたのである。……幸子は肥りじしのゆったりとし…

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