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日本婦道記
にほんふどうき
作品ID57809
副題藪の蔭
やぶのかげ
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社
1981(昭和56)年9月15日
初出「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年7月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者酒井和郎
公開 / 更新2020-07-13 / 2020-06-27
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「きょうここを出てゆけば、おまえにはもう安倍の家よりほかに家とよぶものはなくなるのだ、父も母もきょうだいも有ると思ってはならない」
 父の図書にはそう云われた。母は涙ぐんだ眼でいつまでもじっとこちらの顔を見まもりながら、
「よほど思案に余るようなことがあったら相談においで」
 とだけ、囁くように云って呉れた。そして兄の源吾はいつものむぞうさな調子で、
「今夜はとのい番だから残念ながら祝言の席へは出られない、まあしっかりやれ、安倍はたのみがいのある男だ、きっと仕合せになれるよ」
 そう云って笑った。
 女とうまれた者は誰でもいちどは聞く言葉であろう、そしてどう云いまわしてもありふれた平凡なものでしかないそうした言葉のなかから、誰もがそれぞれ忘れがたい感銘をうけるに違いない。父の言葉のきびしさ、母親の温かい愛情、兄の祝福、どれにもかくべつ新らしい表現はなかった。けれども由紀にはそれがみな胸にしみとおるほど切実に聞え、とつぐという覚悟をあらためて心に彫みつけられたのであった。
 ゆくさきには少しも不安はなかった。良人となるべき安倍休之助は二百石あまりのおなんど役で、金穀元締り方を謹直につとめており、温和なことにも定評があるし、老母ひとりしかいない家庭は穏やかさとつつましさそのものだという。老母なほ女ともいちど会っているが、からだつきの小がらなしっとりとした婦人で、たえず眼もとにしずかな微笑をうかべているという風だった。……由紀にとってただ一つ心配なのは、自分が八百石の大寄合の家にうまれ、父母と兄とのふかい愛情に包まれて育ったこと、世の中の辛酸を知らず、ただのびやかに過して来たことだった。富裕とはいえないまでも不自由ということを知らなかったこし方に比べれば、二百石の家計のきりもりはたやすいこととは思えない。日常のこまかい事の端はしにも、色いろ習慣の違いがあるだろう、そういうなかへうまくはいってゆけるかしらん、それだけがいつまでも心にかかっていた。
 三の丸下の生家を出たのは昏れがたのことだった。安倍の家は寺通りといわれる武家屋敷のはずれにあり、乗物が着いたときはもう灯がともっていた。仲人の吉岡頼母夫婦にみちびかれてはいったひと間は、それが自分の居どころになるのであろう、六帖ほどのおちついた部屋で、新らしく張り替えた襖や障子に燭台の光がうつって眩しいほどだった。……老母なほ女が挨拶にみえ、つづいて四五人の婦人たちが仲人夫婦と会釈を交わしに来た。ざわざわした人の出はいりや、輿入の荷をはこび込む物音など、気ぜわしいあたりのようすを由紀はじっと坐ったまま、綿帽子のなかでよその世界のことのように聞いていた。……どのくらいの時が経ってからだったろう、あたりの騒がしさが鎮まって、すべての物音がぴたりと停ったような一瞬、ふと「おそいな」という誰かの呟きが聞えた。誰かが立って部…

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