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日本婦道記
にほんふどうき |
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作品ID | 57814 |
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副題 | 小指 こゆび |
著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社 1981(昭和56)年9月15日 |
初出 | 「講談雑誌」博文館、1946(昭和21)年1月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 酒井和郎 |
公開 / 更新 | 2019-08-25 / 2019-07-30 |
長さの目安 | 約 23 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「今日は、そんなものを着てゆくのか」
「はい」小間使の八重は、熨斗目麻裃を取り出していた。平三郎は、ぬうと立ったまま八重の手許を見まもる、彼にはなぜ礼服を着てゆくかがわからない。
「なにか今日は、式日だったのか」
「いいえ、お式日ではございません」
八重は礼服をきちんと揃える、それを脇へ直して扇筺を取る、蓋を開けてやはり式用の白扇を取り出し、それを礼服の上へ載せる。平三郎は八重のすばしこい手の動きを見ている。……少し寸の詰った、小さな、可愛い手である。然しその右手の小指の第二関節のところが、内側へ少し曲っているのが彼の眼を惹く。それは娘たちがなにか摘むときに小指だけ離して美しく曲げる、あの手の嬌態ほどの曲り方である。
「その指はどうかしたのか」
「どれでございますか」
「その右手の小指さ」
「まあ」八重は慌てたように、片方の手でその指を隠す、「……これは生れつきでございますの、いつぞや申し上げましたのに」
それから、揃えた礼服をひき寄せる。そこで平三郎はいま着たばかりの常着の、袴の紐を解こうとした。八重はおどろいて、それはその儘でよいこと、礼服は、挾箱へ入れて持ってゆくのだということを説明する。
「今日はお帰りに鹿島さまへお寄りなさるのですから、御下りのときこれをお召しあそばすのでございます」
「ああそうか」平三郎はにこっと笑う、「……あれは今日だったのか」
「お袴はいけませんですよ」八重は若い主人を見上げて戒めるような微笑をみせる、「……いつもとは違うのでございますからね」
そして膝ですり寄って、平三郎の袴の裾を揃え、軽くとんと下へ引き、襞を撫でてから、「さあ宜しゅうございます」といい、自分も礼服を抱えて立った。
父の新五兵衛は、もう先に出仕していた。母親と家扶に送られて家を出た平三郎は、小馬場の西をまわってゆきながら、「袴はいけない」と呟く。それから眼をあげて空を見る。よく晴れた冬の朝で高い高い碧空をなにかしらぬ鳥が渡っている、彼はゆっくりと御宝庫の向うにある自分の詰所へと歩いていった。
平三郎は、山瀬新五兵衛の一人息子である、父は川越藩秋元家の中老、彼は小姓組で書物番を勤めていた。父も挙措のしずかな温厚一方の人で、かつて怒ったり暴い声を立てたりしたことはないが、平三郎も同じように極めておっとりした気質をもっていた。唯一つ彼には放心癖があって、失敗というほどではないが時どき顔を赧くする場合がある。もうかなり以前のことだが、朝、着替えをしているとき、手に袴を持って、穿こうとした形のまま、途方にくれてしまった。……八重はそのときまだ奉公に来て早々だったが、若主人が袴を持ったまま惘然と考えこむのを見て、「いかがあそばしました」と訊いた。平三郎はうむといってなお暫く考えていたが、やがて、「やっぱりこうか」と呟きながらようやく袴へ足を入れた。それか…