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日本婦道記
にほんふどうき |
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作品ID | 57817 |
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副題 | 春三たび はるみたび |
著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社 1981(昭和56)年9月15日 |
初出 | 「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年4月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 酒井和郎 |
公開 / 更新 | 2020-01-11 / 2019-12-27 |
長さの目安 | 約 26 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「今夜は籾摺りをかたづけてしまおう、伊緒も手をかして呉れ」
夕食のあとだった、良人からなにげなくそう云われると、伊緒はなぜかしらにわかに胸騒ぎのするのを覚え、思わず良人の眼を見かえした。夕方お城からさがって来たのを出迎えたときにも、いつもはそこで大剣だけをとってかの女にわたすのに、その日にかぎって自分で持ったままあがった、顔つきもなんとなく違ってみえたし、高頬のあたりにきびしい線があらわれているように感じられた。……お城でなにかあったのかしら、そういう不安が夕食のあいだもあたまから去らなかった。そこへ常になく籾摺りを手つだえと云われたので、いよいよなにごとかあったのだと直感された。
義弟の郁之助を稽古におくりだし、姑のすぎ女と自分の食事をすませて、あとかたづけもそこそこに納屋へゆくと、良人はもうひとりで臼をまわしていた。燈油の燃ゆる匂いと、脱穀する籾の香ばしいかおりとがまじり合って、納屋の中はあまく噎っぽい匂いでいっぱいだった。
「おそくなりまして……」と云ってすぐに俵へかかろうとしたが、伝四郎は臼をとめながら、「まあ待て、少しはなしたいことがある」とふりかえった。
「その戸を閉めて、ここへ来てかけよう」
自分からさきに藁束を置きなおして腰をかけ、伊緒にも席を与えた。低い天井から吊ってある燈皿のあかりが、じいじいと音をたてながら、ふたりの上からやわらかい光をなげていた。
「おまえも聞いたであろう」
と伝四郎は低いこえで話しだした、「肥前のくに天草に暴徒が乱をおこし、内膳正(板倉重昌)さま、将監(石谷十蔵)さまが征討軍の大将として出陣なすった、それはさる十日のことだったが、このたび総督として松平伊豆守(信綱)さまとわれらがご主君(戸田氏銕)のおふた方が御発向ときまった。今日そのお使者が江戸おもてから到着し、すぐに陣ぞろえがあったのだ」
「そのお供をあそばすのでございますね」
伊緒はやっぱり予感が当ったと思い、われ知らず声をはずませた。伝四郎はうなずいて、
「番がしらの格別のおはからいで、留守にまわるべきところをお供がかなった、世が泰平となり、もはや望みなしと思っていた晴れの戦場へ出られる、さむらいとしての冥加は申すまでもない、おれは身命を棄てて存分にはたらくつもりだ、そしてもし武運にめぐまれ万一にも凱陣することができたなら、必ず和地の家名をあげ、おまえにもいくらかましな世を見せてやれると思う。しかし今のおれには少しも生きてかえる心はない、めざましく戦って討死をするかくごだ、それについて伊緒」
「…………」
「おまえに約束してもらうことがある」伊緒は不安げな眼をあげて良人をふり仰いだ、伝四郎は妻の顔をじっと見まもりながら、「おまえは和地へ嫁してきてまだ三十日に足らない、おれが討死したら、そしてもしまだ身籠っていなかったら、離別して実家へもどってほ…