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日本婦道記
にほんふどうき
副題不断草
ふだんそう
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社
1981(昭和56)年9月15日
初出「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年5月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者酒井和郎
公開 / 更新2020-04-21 / 2020-03-28
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「ちょうど豆腐をかためるようにです」
 良人の声でそう云うのが聞えた。
「豆を碾いてながしただけでは、ただどろどろした渾沌たる豆汁です、つかみようがありません、しかしそこへにがりをおとすと豆腐になる精分だけが寄り集まる、はっきりとかたちをつくるのです、豆腐になるべき物とそうでない物とがはっきり別れるのです」
「ではどうしてもにがりは必要なのだな」
 それはお邸の与市さまの声だった。
「そうです、でなければ豆腐というかたちは出来あがりません」
 良人も与市さまもひどくまじめくさった調子だった。菊枝はその部分だけ聞いたのだが、なんのために豆腐のかため方などを話しあっているのかわからず、「男の方たちはときによると子供のようなことに興がるものだ」とよく云われているのを思いだし、つい可笑しくなって独りでそっと笑っていた。それで良人の呼んでいるこえに気づかず、三度めのはげしい高声でおどろいて座を立った。
「茶を代えぬか、なにをしているんだ」
 三郎兵衛はいきなりどなりつけた、棘々しい刺すような調子だった、そしてまるで人が違ったような意地の悪い眼だった、菊枝はあまりの思いがけなさにかっと頭へ血がのぼり、おそろしさで危うくそこへ竦んでしまうところだった。
 それが最初のことだった、嫁して百五十日あまり、口数の少ない、しずかなひとだと信じていた良人なのに、それから眼にみえて変りだした。言葉つきは切り口上になり、態度は冷たくよそよそしいものになった、どんな小さな過失もみのがさず棘のある調子で叱りつけた、そして姑までがしばしば、
「もう少し気をはたらかせないといけませんね、こんな小人数の家でそれでは困りますよ、もっとしっかりしなければね」
 そう云ってたしなめるのだった。姑は両眼が不自由だった、それもとし老いてからの失明で、勘が悪く、起きるから寝るまでいろいろと菊枝の介添が必要だった。気のやさしい、おもい遣りのあるひとではあったけれど、三郎兵衛のことになるとまるで菊枝に同情がなくなった。――そうだ、もっとしっかりしなければ。菊枝はそう心をひきしめ、過失をしないように、できるだけ良人や姑の気にいるようにとつとめた。しかしそういう緊張しすぎた気持はかえって過失をしやすいものである、良人の小言は多くなるばかりだったし、菊枝は神経が昂ぶって眠れない幾夜かを明かすようになった。
 春になってからの或る夜、九時すぎてからのことだったが、三郎兵衛は急に酒をのむと云いだし、家に無ければ買って来いと命じた。武家の妻として夜酒を買いにゆくなどということは恥ずかしいし、時刻も時刻なので菊枝はちょっと立てなかった、すると三郎兵衛はびっくりするような高声でどなりつけた、
「なにをうろうろしているんだ、寝ていたら起こして買え、すぐいって来い」
 あまりのはげしさに菊枝はなかば夢中で良人の部屋をはしり出…

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