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日本婦道記
にほんふどうき
副題糸車
いとぐるま
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社
1981(昭和56)年9月15日
初出「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年2月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者酒井和郎
公開 / 更新2019-03-12 / 2019-02-22
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「鰍やあ、鰍を買いなさらんか、鰍やあ」
 うしろからそう呼んで来るのを聞いてお高はたちどまった。十三四歳の少年が担ぎ魚籠を背負っていそぎ足に来る、お高は、
「見せてお呉れ」
 とよびとめた。籠の中にはつぶの揃った五寸あまりあるみごとな鰍が、まだ水からあげたばかりであろう、ぬれぬれと鱗を光らせてうち重なっている、思いだしたようにはげしく口を動かすのもあり、とつぜんぴしぴしと跳ねあがるのもあって、千曲川のみずの匂いが面をうつような感じだった、
「五十ばかり貰いましょう」
 そう云ってから容れ物のないことに気がついた、どうしようとあたりを見やると、つい向うに荒物屋の店のあるのをみつけ、このあいだから目笊が一つほしかったのを思いだした。
「あの店で容れ物を求めますからいっしょに来てお呉れな」
「近くならお宅まで持ってゆきますよ」
 少年は賢げな眼でこちらを見た、お高は頬笑みながら、それには及ばない、と云ってあるきだした。
 新らしい目笊へ鰍を入れて帰るみちみち、お高はなんと云いようもなく仕合せで心ゆたかに浮き浮きしてくるのを抑えきれなかった。どうしてこんなに嬉しいのかしら、なぜこんなに心がはずむのかしら、なんどもそう自分に問いかけてみた。会所では褒めて頂いたし、久しぶりで父上のご好物の鰍があったし、空はこのように春めいて浅みどりに晴れあがっているし、それでこんなにたのしい気持になるのだろうか。そんな理由を色いろ集めてみたくなるほどだった。そして通りすがりの人の眼にも浮き浮きしてみえるのではないか、そう考えると恥ずかしくて顔が赤くなるようにさえ思った。……父は依田啓七郎といって、信濃のくに松代藩につかえる五石二人扶持の軽いさむらいだった、実直いっぽうの、荒いこえもたてない温厚なひとだったが、二年まえに卒中を病んで勤めをひき、今でも殆んど寝たり起きたりの状態がつづいている。十歳になる弟の松之助が、名義だけ家督を継いでいたが、まだ元服もしていないのでお扶持は半分ほどしかさがらない、母親は松之助が三つの年に亡くなって、家族は三人だけであるが、病気の父と幼ない弟をかかえての家計はかなり苦しかった。お高はことし十九になるが、父に倒れられて以来その看護や弟のせわや、こまごました家事のいとまを偸んで、せっせと木綿糸を繰っては生計の足しにしていた。松代藩では種油と綿糸はたいせつな産物だったので、身分の軽い家庭には糸繰りを内職にすすめ、器具を貸したり指導したり、製品を買い上げたりするための会所が設けてある、十日ごとに出来た品を届けるのだが、今日もお高が繰った糸束を持ってゆくと、いつも係になっている白髪のきつい眼をした老人が、めがね越しにこちらを見ながら糸の出来を褒めて呉れた。
「僅かなあいだにたいそう上手になられたな、こなたの糸は問屋でも評判になっているそうだ、ひとつには孝行の徳…

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