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日本婦道記
にほんふどうき
作品ID57821
副題松の花
まつのはな
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」 新潮社
1981(昭和56)年9月15日
初出「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1942(昭和17)年6月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者酒井和郎
公開 / 更新2019-02-14 / 2019-01-30
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 北向きの小窓のしたに机をすえて「松の花」という稿本に朱を入れていた佐野藤右衛門は、つかれをおぼえたとみえてふと朱筆をおき、めがねをはずして、両方の指でしずかに眼をさすりながら、庭のほうを見やった。窓のそとにはたくましい孟宗竹が十四五本、二三、四五とほどよくあい離れて、こまかな葉のみっしりとかさなった枝を、澄んだ朝の空気のなかにおもたげに垂れている。藤右衛門はつやつやとした竹の肌に眼をやりながら、肩から背すじへかけて綱をとおしたようなつかれの凝をかんじた。
 藤右衛門は紀州徳川家の年寄役で、千石の食禄をとり、御勝手がかりという煩務をつとめとおして来た。六十四歳のきょうまで、ほとんど病気というものを知らず、いくらか髪に白いものをまじえたのと、視力がややおとろえたのを除けば壮者をしのぐ健康をもっていた。けれどもその年の春さき、老年をいたわるおぼしめしから御勝手がかりの役目を解かれ、菊の間づめで藩譜編纂のかかりを命ぜられてから、おおくは自分の屋敷の書斎にとじこもって、したやくの者たちの書きあげてくる稿本に眼をとおすだけが仕事になり、煩雑な日常から解放されたのであるが、それ以来、かえって身すじにつかれの凝をかんじるようになった。いま机の上にひろげている稿本「松の花」は、藩譜のなかに編まれる烈女節婦の伝記と、紀州家中、古今のほまれ高き女性たちを録したものである。藤右衛門はつねづね、泰平の世には、婦道をただしくすることが、風俗を高めるこんぽんであると信じていた。それでその校閲にはもっとも念をいれ、一字一句のすえまで吟味を加えているのだが、この四五日はなんとなくつかれ易く、ともすれば惘然と筆をやすめていることが多くなった。――身にいとまのあることがかえって悪いのだろう、馴れてくればこんなことも無くなるにちがいない。藤右衛門は自分ではそう考えていた。けれどもその原因はじつはもっとほかにあった。妻のやす女がいま重態なのである。去年の夏からのわずらいがしだいに増悪するばかりで、すでに医師もみはなしていたし当人もすっかりあきらめていた、ことにゆうべはほとんど臨終かと思われ、わかれの言葉もとりかわしたほどである。病気が癌という不治のものだったので、はやくからたがいに覚悟ができていた。かなしさもつらさもいまさらのものではない。ただ臨終が平安であれと祈るほかには、藤右衛門の心はしらじらとした空虚しか残っていなかった。
 竹のつやつやと青い肌を見ていた藤右衛門は、小走りにいそいで来る廊下のあしおとを聞いてわれにかえったように筆をとりあげた。
「申しあげます、父上、申しあげます」
 長子格之助の声であった。
「あけてよい、なにごとだ」
「病間へおはこびください、母上のごようすが悪うございます」
「……そうか」
「すぐおはこびくださいまし」
 藤右衛門は立とうとして、どういうわけか一瞬…

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