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季節のない街
きせつのないまち
作品ID57822
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十四巻 青べか物語・季節のない街」 新潮社
1981(昭和56)年11月25日
初出「朝日新聞 夕刊」1962(昭和37)年4月1日~10月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者富田晶子
公開 / 更新2018-10-16 / 2018-09-28
長さの目安約 408 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

街へゆく電車

 その「街」へゆくのに一本の市電があった。ほかにも道は幾つかあるのだが、市電は一本しか通じていないし、それはレールもなく架線もなく、また車躰さえもないし、乗務員も運転手一人しかいないから、客は乗るわけにはいかないのであった。要するにその市電は、六ちゃんという運転手と、幾らかの備品を除いて、客観的にはすべてが架空のものだったのである。
 運転手の六ちゃんは「街」の住人ではない。中通りと呼ばれる、ちょっとした繁華街に、母親のおくにさんと二人でくらしていた。父親はなかった。死んだのか別れたのか、その消息は誰も知らないが、ともかく父親を見た者はなかった。おくにさんは女手でてんぷら屋をいとなみ、六ちゃんと二人で肩身せまくくらしていた。――断わっておくが「てんぷら」屋といっても、じつは精進揚げのことである。
 おくにさんは四十がらみで、顔も躯も肥えていた。眼にはあらゆる事物に対する不信と疑惑のいろを湛え、口は蛤のように固くむすばれ、いくらか茶色っぽいかみの毛は、油っけなしのひっ詰め髪に結われていた。
 古い伊勢縞か、木綿の布子か、夏は洗いざらした浴衣に、白い割烹前掛をつけ、夏冬とおして衿に手拭を掛けていて、黙っててんぷらを揚げたり、客の応対をしたりするのであった。衿に掛けた手拭と、白い割烹前掛とが、喰べ物を扱う彼女の動作を、いかにも清潔らしく見せるように感じられた。
 おくにさんは無口だった。客にもよけいなあいそは云わず、あたしの揚げるてんぷらの味が充分にあいそを云っている筈だ、と自負しているようなそぶりがちらちらした。――事実はそうでなく、絶えまなしに六ちゃんのことが気にかかり、絶えまなしにおそっさまの御利益や、奇蹟や、効験あらたかな祈祷師の噂などが、そのいくらか茶色っぽいかみの毛を油けなしでひっ詰め髪に結った頭の中で、せめぎあっていたのだ。
 一日のしょうばいが終り、店を閉め、寝る支度をすませてから、おくにさんは仏壇を開いて燈明と線香をあげ、玩具のような団扇太鼓を持って、六ちゃんと並んで坐る。できるなら標準型の団扇太鼓にしたいのだが、近所に遠慮があるし、(なぜなら近所にはてんぷらを買ってくれる客が多いから)まさか太鼓の大小によって、おそっさまの機嫌が変るものでもあるまいと思い、多少ひけめを感じながら、その小さな太鼓でまにあわせているのであった。
「なんみょうれんぎょう」坐るとすぐに六ちゃんが、仏壇に向っておじぎをしながら、母親に先んじてお願いをする、「――おそっさま、毎度のことですが、どうか、かあちゃんの頭がよくなるように、よろしくお願いします。なんみょうれんぎょう」
 そして、おくにさんが玩具のような団扇太鼓を叩き、お題目をとなえ始めるのであった。

 おくにさんの祈りが、わが子六ちゃんのためであることは断わるまでもない。にもかかわらず、お題目とお…

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