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赤ひげ診療譚
あかひげしんりょうたん
作品ID57839
副題08 氷の下の芽
08 こおりのしたのめ
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」 新潮社
1981(昭和56)年10月25日
初出「オール読物」1958(昭和33)年12月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2019-01-23 / 2018-12-24
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 十二月二十日に、黄鶴堂から薬の納入があったので、二十一日は朝からその仕分けにいそがしく、去定も外診を休んで指図に当った。保本登は麹町の家へゆく約束があり、去定から三度ばかり注意されたが、自分が出かけると、あとは去定と森半太夫の二人になってしまうため、なま返辞をするだけで、そのまま仕分けを続けていた。
 午後二時の茶のとき、登は半太夫と食堂へゆき、いっしょに茶と菓子を食べた。そのとき半太夫はおゆみという狂女が危篤で、「もう十日とはもつまい」と告げた。いちじは気の狂う時間が短くなったが、ちかごろそれが逆になり、正気でいるときのほうが少なく、食欲も減退するかと思うと異常に昂進したりする。不眠が続き、発作が起こると暴れまわって、躯じゅうになま傷が絶えない。いつか縊死をしようとしたが、それから眼に見えて衰弱し、いまでは食事もとらず、意識もしだいに溷濁するばかりである、というようなことであった。
「父親というのが来たよ、昨日だったが」と半太夫は云った、「五十ばかりの痩せた、温厚そうな人だった、住所はやはり隠していたがね、――保本は先生から聞かなかったか」
 登は頭を横に振った。
「ではいまでも先生だけしか知らないんだ」と半太夫は云った、「おれが会った感じでは、相当な大商人の、それも隠居といった人柄で、娘の話になると始めから終りまで涙をこぼしていた」
 おゆみが狂った原因は、一人の手代のいたずらによるものだ。躰質もそうだったかもしれないが、三十男のその手代は、九つという幼ないおゆみにいたずらをし、「人に告げると殺してしまう」と威した。そんなことがあったとは知らず、ほかに不始末をしていたので、その手代は暇をだした。ずっと経って、おゆみに婿がきまり、その縁組が破談になったあと、おゆみのようすがおかしくなり始めたとき、初めてその事実がわかった。
「いまでもその手代を殺してやりたいと思う、と父親は云っていた」半太夫は茶を注ぎながら、首を振った、「仮にそういう躰質だったにもせよ、その手代がそんないたずらをし、そんな威しをしなかったら、娘もこんなふうに狂いはしなかったろう、これからでも、もしその男を見つけたら、その男を殺して自分も死ぬつもりだ、そう云ってまた泣いていたよ」
 それは間違っている、と登は心の中で云った。彼はおゆみ自身の口から、その身の上話を聞き、それが殆んど事実だということを慥かめた。手代は病的性格だったようだし、むろん責任がないとは云えないが、男女いずれにも、幼少のころに似たような経験をすることが多い。特におゆみの場合は、母親の変死とか、縁組の破談などということが重なっている。こういう悪条件の重複にも、たいていの者は耐えぬいてゆくものだが、おゆみには耐えることができなかった。要するにおゆみの躰質が、色情に関しては極度に敏感であって、それを抑制すると全体の調和が…

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