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赤ひげ診療譚
あかひげしんりょうたん
作品ID57841
副題01 狂女の話
01 きょうじょのはなし
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」 新潮社
1981(昭和56)年10月25日
初出「オール読物」1958(昭和33)年3月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2018-06-22 / 2018-05-27
長さの目安約 42 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 その門の前に来たとき、保本登はしばらく立停って、番小屋のほうをぼんやりと眺めていた。宿酔で胸がむかむかし、頭がひどく重かった。
「ここだな」と彼は口の中でつぶやいた、「小石川養生所か」
 だが頭の中ではちぐさのことを考えていた。彼の眼は門番小屋を眺めながら、同時にちぐさのおもかげを追っていたのだ。背丈の高い、ゆったりしたからだつきや、全身のやわらかいながれるような線や、眼鼻だちのぱちっとした、おもながで色の白い顔、――ちょっとどこかに手が触れても、すぐに頬が赤らみ、眼のうるんでくる顔などが、まるで彼を招きよせでもするように、ありありと眼にうかぶのであった。
「たった三年じゃないか」と彼はまたつぶやいた、「どうして待てなかったんだ、ちぐさ、どうしてだ」
 一人の青年が来て、門のほうへゆきながら、振向いて彼を見た。服装と髪のかたちで、医師だということはすぐにわかる。登はわれに返り、その青年のあとから門番小屋へ近づいていった。彼が門番に名を告げていると、青年が戻って来て、保本さんですかと問いかけた。彼はうなずいた。
「わかってる」と青年は門番に云った、「おれが案内するからいい」
 そして登に会釈して、どうぞと気取った一揖をし、並んで歩きだした。
「私は津川玄三という者です」と青年があいそよく云った、「あなたの来るのを待っていたんですよ」
 登は黙って相手を見た。
「ええ」と津川は微笑した、「あなたが来れば私はここから出られるんです、つまりあなたと交代するわけなんですよ」
 登は訝しそうに云った、「私はただ呼ばれて来ただけなんだが」
「長崎へ遊学されていたそうですね」と津川は話をそらした、「どのくらいいっておられたんですか」
「三年とちょっとです」
 登はそう答えながら、三年、という言葉にまたちぐさのことを連想し、するどく眉をしかめた。
「ここはひどいですよ」と津川が云っていた、「どんなにひどいかということは、いてみなければわかりませんがね、なにしろ患者は蚤と虱のたかった、腫物だらけの、臭くて蒙昧な貧民ばかりだし、給与は最低だし、おまけに昼夜のべつなく赤髯にこき使われるんですからね、それこそ医者なんかになろうとした自分を呪いたくなりますよ、ひどいもんです、まったくここはひどいですよ」
 登はなにも云わなかった。
 ――おれは呼ばれて来ただけだ。
 まさかこんな「養生所」などという施療所へ押しこめられる筈はない。長崎で修業して来たから、なにか参考に訊かれるのだろう。この男は誤解しているのだ、と登は思った。
 門から五十歩ばかり、小砂利を敷いた霜どけ道をいくと、その建物につき当った。すっかり古びていて、玄関の庇は歪み、屋根瓦はずれ、両翼の棟はでこぼこに波を打っていた。津川玄三は脇玄関へいき、履物を入れる箱を教え、そこから登といっしょにあがった。
 廊下を曲ってい…

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