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赤ひげ診療譚
あかひげしんりょうたん
作品ID57843
副題06 鶯ばか
06 うぐいすばか
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」 新潮社
1981(昭和56)年10月25日
初出「オール読物」1958(昭和33)年10月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2018-11-22 / 2018-10-24
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 俗に「伊豆さま裏」と呼ばれるその一帯の土地は、松平伊豆守の広い中屋敷と、寛永寺の塔頭に挾まれて、ほぼ南北に長く延びていた。表通りには僅かばかりの商店と、花やあか桶を並べた寺茶屋があるほかは、商家のつつましい隠宅とか、囲い者、かよい番頭などの、静かなしもたやが多く、だが、五筋ある路地へはいると、どの路地も左右の棟割り長屋が軒を接していて、馴れない者にはうっかり通ることができないほど、いつもうす暗く、狭く、そしてとびまわる子供たちでごたごたしていた。戸数は全部で四十七あるが、すっかり毀れて人の住めないところが十二戸もあり、そのほかにも借り手のない空き店が七戸か八戸あるので、実際の住人は二十七か八家族、合わせて百五十人から百七八十人を前後していた。
 保本登が、去定の供でその長屋へいったのは、「鶯ばか」と呼ばれる男を診察したときのことであった。九月中旬の風の強い日で、五カ所を回診したあとだから、もう日は昏れかかってい、路地の中は煮炊きの煙でいっぱいだった。むろん、去定はもう馴染なのだろう、尊敬をこめた挨拶や、親しげに呼びかける声が、強い風に煽られる炊事の煙の中で、右から左からと、殆んど絶えまなしに聞えた。いちどなどは屋根の上から呼びかけたので、案内に立っていた差配の卯兵衛が叱りつけた。
「そんなところからなんだ、弥助だな、このばか野郎」と卯兵衛はどなった、「屋根の上から先生に声をかけるという法があるか、馬方をしていたってそのくらいの礼儀は知っているだろう、おりて来い」
「屋根が飛んじまうがいいかい」
「屋根がどうしたと」
「この風だよ、うへえ」と屋根の上の男がどなり返した、「怒っちゃいけねえよ、差配さん、いまのうへえってのはおまえさんの名めえじゃあねえ、おそれいったときの合の手だからね、うへえ」
「ふざけるなこの野郎」
「あがって来てみな、わかるから」と屋根の上の男がどなった、「この屋根は半刻もめえからばきばきいってるんだ、おれがこうして重石になってるからいいようなもんの、おれがどいてみねえ、いっぺんにひん捲くられて飛んでっちまうから」
 去定が笑って云った、「弥助、するとおまえは、風のやむまでそこにそうやっているつもりか」
「どうもしようがねえ」と屋根の上の男が云った、「店賃が溜ってるし、この長屋を出るあてもねえんだから、まあ、わっちのことはしんぺえしねえでおくんなさい、先生」
「呆れた野郎だ」と卯兵衛が云った、「そんなことを云って、屋根を踏み抜きでもすると承知しねえぞ」
 屋根の上の男がなにか云い返したが、「うへえ」という言葉しか聞きとれなかった。卯兵衛は舌打ちをし、まだ狭い路地の中でふざけている子供や、軒下で魚を焼いている女房などに小言を云いながら、去定たちを十兵衛の住居へ導いていった。
 十兵衛は四十一歳、おみきという妻に、おとめという七歳の女の子…

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