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墨色
すみいろ
作品ID57867
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第二巻」 岩波書店
2000(平成12)年11月6日
初出「美術思潮 1」1938(昭和13)年1月1日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-05-25 / 2017-03-19
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私が初めて墨色というものに興味を惹かれたのは、友人金沢の日本画家N氏の家でのことであった。N氏は洋画出身であるが、其の後支那の旧い文化に興味を持ち始めたのが動機で、今では日本画家としての方が通りが良い。二十年近くも前のことであるが、私が金沢の高等学校に在学時代、初めて知り合いになった頃は、支那の仏教典籍に凝っていて、鳥巣禅の図などを描いて呉れたことがあった。その後大学へ行ってからは、私は専門の方の勉強に忙しくなってしばらくN氏との交渉も途絶え勝ちになっていたのであるが、五、六年前に金沢へ立ち寄った時に久し振りで同氏の画室を訪れたことがあった。
 久し振りの会合で昔の思い出などを語り合っている中に、N氏は「此の頃段々墨絵に興味が出て来て、特に墨色の美しさに何よりも心を惹かれるようになりました。それで少し許り研究を始めたのですが」という前置きで色々の墨を持ち出して来た。凝り性のN氏のことだからまた始めたなと思って、私も興味を感じながらその話に引き入れられたのであった。そして予期の如くにその話は大変面白かった。墨の蒐集家は日本に沢山あって、その誰もが墨のことでは自分が一番くわしいと思っておられるようであるから、田舎の片隅でこっそりいわゆる唐墨のかけらなどを少しばかり集めているN氏の墨の話などには、あまり誰も権威を認めてくれないようである。それに墨色といえば墨ばかりでなく硯も重要な因子になるので、それまではとてもN氏の力では蒐集することが出来そうもなかった。それでもN氏はやっと端渓の小さい硯を一つ手に入れ、唐墨の破片を数片、宋その他の墨も数片は集めていた。蒐集品としてはこれらの品は全く一笑に附せられるものであろうが、私が興味をひかれ、かつ感心したのはその研究態度であった。従来の名墨の研究というのは、その系統や彫刻の図柄の研究が多いので、墨色自身の組織立った研究というものは極めて稀れかあるいは絶無に近いのだそうである。ところがN氏の研究は全く科学的で、ちょうど物理学者のやり方と筋の上では完全に一致しているのにちょっと驚かされたのである。N氏は物理学の方面の教育はほとんど受けていないのにもかかわらず、その研究の心構えは立派な物理学者であった。勿論器械も装置もほとんどないのであるから、その研究は物理的研究ということは出来ないが、それだけに氏の「物理的研究」には一層の興味がひかれたのである。
 氏は他の条件を一定に決めなければ、ある性質の比較は出来ぬということをちゃんと心得て、まず用いる硯をきめ、常にその硯で蒸溜水を用いて色々の墨を磨ってみたのである。「磨り方は手加減でいつも大体同じ位の力で磨ることにしまして」という説明もついていた。そして紙も十分注意して石粉の全然はいらぬものを使って、その上に濃淡様々の墨色が出るような簡単な図形を描いて見るのであった。それを色々の墨につ…

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