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名字の話
みょうじのはなし
作品ID57903
著者柳田 国男
文字遣い新字新仮名
底本 「柳田國男全集20」 ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年7月31日
初出「斯民家庭 第二編第七号、第九号、第一〇号、第一一号」報徳会、1911(明治44)年7月1日、9月1日、10月1日、11月1日
入力者フクポー
校正者砂場清隆
公開 / 更新2018-08-08 / 2018-07-27
長さの目安約 49 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

日本はきわめて名字の数の多い国

 多くの日本人が想像するように、昔というものが現代と無関係のものでないということを証明するがために、名字の話をしようと思う。
 我々が十人寄れば多くの場合には十の名字があって、鈴木とか渡辺とかありふれた名は別として、その他の人にあっては、旅行先または交際場裡において同じ名字の人に出合えば、お互いに珍しがるのが普通でありましょう。すなわち日本人の名字の数はそれほど変化が多くて、少なくとも家の数の百分の一ないし八十分の一、すなわち八万ないし十万はあろうと思われる、日本はきわめて名字の数の多い国であります。

なぜ多くの名字ができたか

 さて何ゆえにかくのごとく多くの名字がわが邦にできたか、高きも低きもいっせいに、日の神の御裔であるところの大和民族が、いかなる必要があってかくのごとく分れて行ったか。今までこれを考えた人は少ないけれども、実はよほど面白い問題であります。もちろん太郎という名の人が数人あり、清という名の人が数人あるのを区別する目的といえばそれまでであるけれども、それだけのためならばことさらに珍しい面倒な名字を作る必要はないので、一号の清とか二号の太郎とかいうような、下足札のような分類でないことはいうまでもないことであります。
 しからばいかなる生活上の必要があってかくのごとき名字を伝えるようになったか、これはやや古い時代の社会を研究してみなければ、明白なる解答を与うることができないのです。

地名と名字との関係

 これはおそらく誰も知っていることであろうと思いますが、多くの名字は地名と同じいことであります。たとえば京都から移住して来られた旧華族の家々の名と同じ地名が、京都の町にはなはだ多いのです。我々の郷里の附近には、たとい同じ所でないとしてもしばしば名字と同じ地名がある。たとえば鹿児島県に行ってみると、鹿児島藩士の一種変った名字は、十中九までが薩隅日三ヶ国の郷の名であることがわかる。そうして我々の名字はどういう訳でかくのごとく、地名と関聯して共通するものであるか。地名によって名字を付けるならば、何ゆえに自分の住んでいる村の名を名字とせずして、五里十里離れた所の地名、またははるかに遠方の地名を持っているのか。この問題を少しく説明してみようと思う。

二重に家の名を表わす例

 今日の戸籍の上にはもはや現われておらぬけれども、朝廷の儀式等で昔風に人の名を言い現わす場合には、普通の名字のほかに源の朝臣とか藤原の朝臣とかいうように、二重の家の名を表わす例になっている。この源または藤原は姓といって、名字とは全然別のものであるというのが古来学者の説である。しかし突き詰めてみれば姓とても、自分の家を他人の家と区別する一種の方法で、名字はさらに同姓の家の間に甲乙を区別すべき第二の家号であるからして、二つの間に性質上の差別はないの…

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