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校歌「都の西北」と私
こうか「みやこのせいほく」とわたし
作品ID57965
著者相馬 御風
文字遣い旧字旧仮名
底本 「相馬御風著作集 第六巻」 名著刊行会
1981(昭和56)年6月14日
入力者フクポー
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-05-08 / 2017-03-19
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 五月十五日發行の『早稻田大學新聞』に「世界的の名校歌」と題して次の如き記事が掲げられてゐた。

「心の故郷我等が母校」と歌つて來ると熱い涙がにじみ出る。無限の魅力を持つた早稻田大學校歌は今日全國津々浦々の兒童に至るまで高唱せぬ者はない。全早稻田の精神氣魄を擴充し抱擁した歌詞といひ旋律といひ、恐らく世界的名校歌であらう。が然し、この名校歌が生れるまでの裏には幾多先輩の苦心が織込まれてゐるのだ。恰も大學名物早慶野球戰春の試合を前にして過去の追憶を新たにし、併せて先輩諸氏への餞けにと校歌創誕當時の物語りを繰展げよう。
      ×
 故小野梓先生、高田早苗先生の大先輩に依つて、開校の式を擧げたのは實に明治十五年十月廿一日で以後二十年間は校歌の存在をみなかつた。明治卅五年に創立廿年記念大會が十月十九日から三日間開催された。當日鳩山校長高田學監を初めとし各科學生は運動場に集まり、大隈伯邸から繰出した講師校友と合同して五時三十分號令一下紅地に白く「早稻田大學」の五字を染拔いた酸漿提燈に點火し、音樂隊の吹奏につれて「煌々五千の炬火」のマーチを歌ひながら勇ましく校門を出發した。これは故坪内博士の作詞で、曲は「四百餘州を擧る」のそれを轉用したものだ。
 この行進歌は學園最初のもので、又「提燈行列」の嚆矢でもあつた。行進隊伍は參加五千名に餘り實に堂々たるものであつた。明治四十年には廿五年記念祝典が行はれた。今度は一つ新しい校歌を作つて、新しい曲詞をつけようと當局は色々考へをめぐらしたが名案がない。思案に餘つて遂に學生全般に賞を懸けて歌詞を募集することにした。集まつたが快心の作がなかつたので、丁度審査員であつた坪内島村兩氏等が協議した結果、「早稻田文學」の編輯をしてゐる相馬昌治氏(御風)に作詞させることにした。相馬氏は面喰つて知人の今では逝きし東儀鐵笛氏(季治)を訪ねて色々打合せ、東儀氏の手許にあつた英米諸國の各大學校歌を調べ、その曲を聽かせてもらひ大體の見當をつけてから高田學長、坪内教授に内容等を尋ね、骨組を作り先輩の承認を經たので齋戒沐浴して作歌に取り懸かつた。家に歸つた御風氏は寢食を忘れて作歌に沒頭し十日の日子を費して脱稿した。その時相馬氏は年僅に廿五歳、學窓を出てから二年經つたばかりで、八千の健兒(當時の數)が歌ふ校歌の作詞を命ぜられた光榮に感泣してゐたといふ。
 第一に調子は莊重を旨として八七調に定めたがそれにしても、坪内、東儀、島村諸氏の意見を斟酌し最後に坪内教授の校閲、加筆を請うてさしもの大作を完成した。第三節の「心の故郷……」の句を[#「「心の故郷……」の句を」は底本では「「心の故郷の……」句を」]坪内教授は口を極めて稱揚されただけに今日我々がきいても胸が高鳴る。最後の「ワセダ・ワセダ」のエールは坪内博士の發案によつたものである。
 相馬氏に依つて出來上つた歌…

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