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帰依と復活
きえとふっかつ
作品ID57971
著者亀井 勝一郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「龜井勝一郎全集 第九巻」 講談社
1971(昭和46)年6月20日
初出「新女苑」1943(昭和18)年1月
入力者酒井和郎
校正者山村信一郎
公開 / 更新2017-11-14 / 2017-12-05
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私の大和古寺巡礼は、まづ夢殿に上宮太子を偲び奉り、ついで法隆寺、中宮寺、法輪寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺をめぐつて、最後はいつも新薬師寺で終るのであるが、これで飛鳥白鳳天平の主なる古寺はひととほり歩いたことになる。私は数年来これをくりかへしてきた。そのあひだに古寺や古仏に対する自分の態度にも様々の変化があつたし、さういふ心の起伏については随時述べてきたが、こゝでもう一度いま私の抱いてゐる感慨をまとめて述べておきたい。それは他の古典にも通ずるであらう、云はば私の懐古の態度である。決して新しい見解ではない。既に解決したと思ひこんでゐる問題や、わかりきつたこととして顧みずにゐるやうなことをも、幾度も心に問ひ質して、つねに初心者の気持を失ふまい、絶えず発心する者でありたいといふのが私の願ひなのだ。新薬師寺を最後にみて、南大門を後に宿へ帰る道すがら、私の思ふことはいつもこの一事である。以下そのための覚え書である。
       *
 すべて古典や古寺に接するとき、我々はまづそれが現代に何の役に立つか、その実際的な意味を問はうとしがちである。大和の古仏の美しさは誰しもみとめるであらう。しかしさういふ美しさや崇高な挙措が、現代の錯雑した問題を解明するに果して役立つだらうか。そこに救ひはあるだらうか。――これは様々な意味で有力な疑惑であるといへよう。必ず一度は直面するにちがひないこの大事な第一問を、徹底的に考へてみようとする人は尠い。この疑惑の重大さに気づかない。そして過去のものがどんなに優れてゐようと、要するにそれは過去であつて、現代人たる自分達は新しい創造に生きねばならぬといふ見解に達する。少くとも重点は現代に在つて、過去は第二義的だといふ。あるひは逆に、過去こそ一切であつて、現在は無だといふ考へ方もある。
 過去と現在――誰しも何げなく用ひてゐるこの言葉の、真の意味はどこにあるのだらうか。この二つは区別して考へらるるものだらうか。歴史といふ大生命の流れに面したとき、我々人間の思慮に由る区別が果してどれほどの力をもつか。私も長いあひだ迷つてきた。大和の古寺を巡りながらも、ふとかうした疑惑が心に生じ、不安になる。
 さういふとき私はまづ自分の心に問ひ質す。何故、古典の地へ幾たびとなく誘はれるのか。おまへをこゝへ導いて来たそもそもの原因は何か。私は幾たびとなく自問する。そして自分の心底からの答――唯一と云つていゝものから、改めて古仏を仰がんとするのである。唯一のもの――私はそれを再生の祈念と呼ばう。いままでの思想や教養や知識を一切放下して私は新たに生れ変らねばならぬ――この願だけはいつも心のどこかに宿つてゐたといへる。むろん当初には、美術鑑賞といふ名目や、新しく日本的教養を得たいといふ下心はあつたし、同時に自分の逍遙してゐるところは美しくはあるが所詮墓場であり廃墟にすぎぬ…

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