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音楽に就いて
おんがくについて
作品ID57975
著者会津 八一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「會津八一全集 第七卷」 中央公論社
1982(昭和57)年4月25日
初出「興風」1922(大正11)年2月
入力者フクポー
校正者鴨川佳一郎
公開 / 更新2017-11-21 / 2017-10-25
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 既に美育部を持つてゐる早稻田中學校が新に音樂會を興してその發會式をやらうとする其の日から、又病氣で暫く引き籠る事になつた。私は元來音樂には殆ど無智で趣味も深いとは言へない。けれども相應な希望は持つてゐる。病中ながら、その希望を會員の諸君にも會員外の諸君にも一寸申し上げてみたいと思ふ。

 吾々は何の爲に畫を描くか? かつて美育部の展覽會で私がかう云ふ問題を出し、そして自分でこの問に答へた事がある。吾々が美育部で努めなければならぬ事は、專門家になる爲に繪を描くのではない、人間として繪を描くのであると云ふ事を自分自身にも他人にも明瞭にしておくべき事――則ち是である。
 むづかしい修養の爲でなく單なる娯樂の爲に繪を描く人があつても必ずしも咎めない。又後々に專門の畫家になつてもそれはその人の自由である。然しながら今から專門家を氣取る人があるならば、それは警めなければならない。その意味は人間には自然に色彩と形との美しさを追及する欲望がある。その欲望を正しく上品に訓練して行く事が吾々として學生時代は勿論一生涯つとめなければならぬ事である。繪を描く事は心の中からの止むべからざる要求を本にして我々の行ふ修養の一つであつて、外部から餘儀なくせらるる種類の物ではない。又見樣見眞似の流行沙汰ですべきものでもないのである。美育部の會ではざつとこんな事を言つたかと思ふ。
 音樂も丁度こんな物であるまいかと思ふ。最近日本の社會へ著るしく音樂の趣味が普及して來たやうである。之は洵に喜ぶべき事で、殊に音樂の如く心の最も深い奧底を動かす力を持つて居る藝術に對する趣味が廣まつて行く事は何よりもうれしい事である。しかし音樂をたのしむ人をよくよく見ると色々な人がある。或る人は餘りに奴隷ではないか? 或る人は餘りにペダンティックであるまいか? 又或る人は單なるエキゾティック趣味の追及者たるに止まるのではあるまいか? 甚だしきに至ると、外見の爲、虚榮の爲、是が餘程ありはせぬかと思ふ。音樂と天才、音樂と夜會、音樂と花環、音樂と横文字、――と連想は何れも輕快ではあるが、必ずしも妙ではない。私が今早中グリークラブの設立を喜ぶのは、今少し率直な切實なそして深刻な、音樂を考へての事である。あらゆる人が人間として是非訓練しなければならぬ音とタイムとの美しさに對する感情の修養、それから生ずる色々の賜物、先づこれを當面の目標としたい。是を捨てて差し當つて我々の眼中に置くべき物はない。世界の大家の名を暗記する事も、その名曲を暗ずる事も、高價な樂器を持つ事も、流行の服裝をする事も、髮の毛を長く延ばす事も、それ等は第二第三の事である。一體如何なる種類の藝術でも人間の自然性の必要から生れ出ぬ物はない。それが原始的状態から次第に專門家の手に移つて發達をとげる。けれどもその專門家の手で却つて人間性の自然に遠ざかる樣になる。其の…

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