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知られざる漱石
しられざるそうせき
作品ID58010
著者小宮 豊隆
文字遣い旧字旧仮名
底本 「知られざる漱石」 弘文堂
1951(昭和26)年7月30日
入力者富田晶子
校正者雪森
公開 / 更新2017-01-01 / 2017-01-01
長さの目安約 70 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

木曜會

 漱石先生の面會日は毎週木曜日だときまつてゐた。木曜の晩には、きまつて大勢の弟子が集まつた。我我はこれを木曜會と名づけて、その常連をもつて任じてゐた。その木曜會の歴史のやうなものを、ここに書いて見ようと思ふ。

 鈴木三重吉によると、先生に面會日をきめさせたのは、三重吉だつたのださうである。先生が訪問客が多くて困ると言つてゐたので、それなら面會日をおきめなさい、就いては土曜・日曜は自分の爲にとつて置いた方がいい、ウィーク・デーで先生の割にひまな日はいつだと訊いたら、木曜日だといふことだつたので、面會日は木曜日の午後三時からといふことにきめたのだといふ。さう言へば明治三十九年(一九〇六年)十月七日(日)附のハガキで、先生は方方に今後面會日を木曜の午後三時からといふことにきめた旨の、通知を出してゐる。この通知を受けた者は、高濱虚子・寺田寅彦・野間眞綱・野村傳四などである。虚子宛のハガキには、「小生來客に食傷して木曜の午後三時からを面會日と定め候。妙な連中が落ち合ふ事と存候。ちと景氣を見に御出被下度候」とある。
 かうして先生の所の木曜會は、明治三十九年十月十一日をもつて始められた。その翌日、即ち十月十二日の夜、先生は高濱虚子に宛てて「拜啓昨日は失敬……今度の木曜にも入らつしやいな。四方太も來るかも知れない。小生元來のん氣屋にて大勢寄つて勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。/……今日も三人來ました。然し玄關の張札を見て草々歸ります。甚だ結構です」と書いてゐる。「張札」とあるのは、赤唐紙の詩箋に、面會日は木曜の午後三時以後といふ意味のことが書かれて、玄關の格子の右上に貼りつけられてゐたからである。

 私は第一囘の木曜會には出席しなかつたやうに思ふ。と言つて私が木曜會に初めて出席したのは、いつのことだつたか、はつきり覺えてゐない。或は三重吉が『山彦』を朗讀した晩が、初めてではなかつたかといふ氣もするが、然しこれは少少曖昧である。ただその時の客が、當の三重吉は無論のこと、介添役としての中川芳太郎、それから高濱虚子・坂本四方太・野間眞綱・皆川正禧・松根東洋城だつたことは、たしかである。野村傳四も寺田寅彦も來てゐたのではなかつたかと思ふ。但これはあまりはつきりしない。森田草平はたしかに來てゐたやうである。

 正岡子規の生前『ホトトギス』では、山會と名づける文章會があつて、同人が文章を持ち寄つて朗讀した擧句、みんなで批評し合ふ習慣があつた。子規が死んでもその會は績いてゐたらしく、現に先生の『猫』の第一は、虚子が山會へ持つて行つて朗讀したものである。もつとも子規の生前もしくは歿後、それに先生が出席したことがあつたかどうかは分からない。然し木曜會ができあがる前に、先生の所には文章會があつて、何か文章ができると、その會で朗讀して、參會者の批評を求めるといふやうな…

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