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楞迦窟老大師の一年忌に当りて
りょうがくつろうたいしのいちねんきにあたりて
作品ID58060
著者鈴木 大拙
文字遣い新字新仮名
底本 「禅堂生活」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年5月17日
初出「禅道 第一二三号」1920(大正9)年12月5日
入力者酒井和郎
校正者岡村和彦
公開 / 更新2018-10-18 / 2018-09-28
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 月日のたつのは誠に早い、楞伽窟の遷化せられてから、もう一年を経過した。昨日今日のように思うて居たが、この分で進めば三年も七年も間もなく過ぎることであろう。そうして他人と自分と皆悉く「永遠」と云うものの裡に吸い込まれて行く。人生も意義があるような、ないような、妙なものである。「永遠」を「刹那」に見て行けば、刹那刹那に無限の義理があるとも云えるが。それでも刹那は水の泡のように次から次へと消えて仕舞う。はかなき点から見れば「永遠」とても亦はかないではないか。何れが是なのか、何れも是なのか、また何れも非であるか、所謂る白雲の「未在」か。併しいくらこんなことを曰うても、俗人には何もわからぬ、只悲しいときには悲しい、おかしいときにはおかしい。「畢竟如何」などと六箇敷いことは云わぬがよい。楞伽窟が亡くなられてから一年をすぎたと云うのは事実である。そうして予は今この事実を思うて居るのである。
 先頃九月末日の大雨に東慶寺の青松軒は大損害をうけた。老師が書斎の前栽も崖から崩れた土砂でめちゃめちゃになった。併し幸にお墓の処には何等の影響もない。阿弥陀の古銅仏は端然として楞伽窟の遺骸を護って居られるように見える、岩穴から流れ出る水も滾滾と尽きぬ、手水鉢は充ちて居る。石燈には老師の自作を毒狼窟の筆で刻み込まれてある。その歌はこうである。

わが身をば何にたとへん白雲の山ある里は家路なりけり

「不可往道人」としてあるのは「楞伽」即ち「ランカー」の義訳である。去年密葬の日は夕方からしょぼしょぼと降って、うら寒い天気であった。今日は晴れわたると云うほどではないが、気候は寧ろ暖かい。(今日も二時半頃から降り出した。)墓の上の方の楓はまだ紅葉しない、石段の上にある銀杏の樹数本は亭亭として聳えて居る。これから益[#挿絵]黄ばんでくると、此処ら一面は落葉で埋まるであろう。お墓はまだ新しいので、何となく落付きがない。併しこれから二年、三年、五年、十年とたつと、生垣も茂り、石段も苔蒸して、お墓らしくなるであろう。何だか有り難いような又有り難くもないような気がせぬでもない。
 書斎に行って見れば、仙崖の画も、隠元の書も、旧の通りであるが、床の間には老師の油画の懸物に線香を上げてある。在りし人の面影のみはいくらか留めて居る、併しその人は見えぬ。「何れの処にか在る」と一場の問答でもすべき処である。ただ向うの山は旧に依りて茅で蔽われて居る。雑木の林の方はまだ十分に秋の景色を現わして居ない。老師在世の頃はよくこの山を見て、今年は紅葉が深いとか浅いとか云われたのを覚えて居る。庭の柿の樹も二本やら三本やら有るのが、去年のように実のって居る。が、雨で庭も池も破れたので、今年は何だか一帯の趣きが変って来た。東慶寺の現住は中々責任がある。老師はなるほど中興であった。あれほどに荒廃した寺をこれほどに復興せられた。併し…

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