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独愁
どくしゅう |
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作品ID | 58069 |
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著者 | 相馬 御風 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「相馬御風著作集 第六巻」 名著刊行会 1981(昭和56)年6月14日 |
入力者 | 岡村和彦 |
校正者 | フクポー |
公開 / 更新 | 2017-07-10 / 2017-06-25 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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今年は雪の降り方が非常に少く、春の來方のあまりに早かつたのにひきかへ、高い山々の雪の消え方は何だかあまりぐづ/\し過ぎてゐるやうである。今私が二階の南向の書齋の窓から眺めてゐる山々もまだ麓まで眞白である。白馬や蓮華などの今頃なほ眞白なのは例年のことであるが、左手に見える雨飾岳が、今頃なほ裾まで深い雪に包まれてゐるやうなことは、ちと變てこである。
里はもう綿入では暖か過ぎるのに、山々はまだ三月末頃の白さである。机に向つて坐つてゐる私は晝寢でもしたいやうな體のけだるさを覺え、肌の汗ばみをさへ感じてゐるのに、遙かに相對してゐる山々はほんのりと霞みながらもまだ冬さながらの粧ひである。
しかもさうした眞白な山々を背景にして、庭松の梢の新芽が既に一尺以上も空に向つて伸び、松の花は今四五日もすれば花粉を風に煙らせるのであらうと思はれるまでになつてゐる。春の來かたが早かつたのは嬉しいが、何となくあわたゞしくもある。東京に住んでゐた頃は、毎年晩春初夏に於ける風物の推移のあまりあわたゞし過ぎるのに氣をいら/\させられたが、此の春はこの北國でそれを感じさせられてゐる。しみ/″\と行く春のさびしさを味ふのは寧ろ快いが、あわたゞしさから來る心の淋しさはうつろであり却つてわびしい。
私の書齋には先頃坪内先生未亡人せん刀自から先生のかたみとしていたゞいた先生の絶筆の一つであるといふ丸盆の四字額が掲げてある。墨くろ/″\と
圓融無碍
の四大文字がいかにも圓融無碍の筆致で書かれ、柿叟と署名されてある。
私はこれを仰ぎながら、しみ/″\ありし日の先生を偲んでゐる。夏目漱石の最後のモットーが「去私則天」であり、坪内先生のそれが「圓融無碍」であつたのも興味深く思はれる。坪内先生についてはいひたいこと、書きたいことが澤山ある。しかしそれは他日ゆる/\思ひ、ゆる/\語ることにしたい。今はまだその時でないやうな氣がする。哀傷のおもひはすでに歌としてかなり多く抒べたし、今なほ折にふれて歌ひつゞけてゐるのだから……
それは兎に角、私は先日亡き先生を偲ぶべく、先生が嘗て「ハムレット」と「[#挿絵]ニスの商人」の一部の朗讀を吹き込まれたレコードをかけさせた。それは稀に風のない靜かな夜であつた。私は實はそれによつてありし日の先生をしめやかに偲びたかつたのであるが、結果は全く反對でレコードが[#挿絵]りはじめると、私は間もなく堪へられない氣味わるさに襲はれ、あわてゝ、それを中止して貰ひたいほどであつた。
それはあまりなま/\し過ぎる先生その人の肉聲であつた。それはあまり眞實すぎるほど眞實な先生その人の生きた聲であつた。眞實に近ければ近いほど亡きその人を偲ぶにいゝわけであるが、眞實はこれに反し眞實に近ければ近いほど氣味わるかつた。私は當分このレコードはかけないことにしよう。時日が遠のけば又どんなに違つて…