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散柳窓夕栄
ちるやなぎまどのゆうばえ |
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作品ID | 58074 |
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著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「雨瀟瀟・雪解 他七篇」 岩波文庫、岩波書店 1987(昭和62)年10月16日 |
初出 | 「三田文学」1913(大正2)年1月、3月、4月 |
入力者 | 入江幹夫 |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2018-06-05 / 2018-05-27 |
長さの目安 | 約 64 ページ(500字/頁で計算) |
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一
天保十三壬寅の年の六月も半を過ぎた。いつもならば江戸御府内を湧立ち返らせる山王大権現の御祭礼さえ今年は諸事御倹約の御触によってまるで火の消えたように淋しく済んでしまうと、それなり世間は一入ひっそり盛夏の炎暑に静まり返った或日の暮近くである。『偐紫田舎源氏』の版元通油町の地本問屋鶴屋の主人喜右衛門は先ほどから汐留の河岸通に行燈を掛ならべた唯ある船宿の二階に柳下亭種員と名乗った種彦門下の若い戯作者と二人ぎり、互に顔を見合わせたまま団扇も使わず幾度となく同じような事のみ繰返していた。
「種員さん、もうやがて六ツだろうが先生はどうなされた事だろうの。」
「別に仔細はなかろうとは思いますがそう申せば大分お帰りがお遅いようだ。事によったらお屋敷で御酒でも召上ってるのでは御ざいますまいか。」
「何さまこれァ大きにそうかも知れぬ。先生と遠山様とは堺町あたりではその昔随分御昵懇であったとかいう事だから、その時分のお話にいろいろ花が咲いているのかも知れませぬ。」
「遠山様という方は思えば不思議な御出世をなすったものさね。ついこの間までは人のいやがる遊人とまで身を持崩していなすったのが暫くの中に御本丸の御勘定方におなりなさるなんて、これまで御番衆の方々からいくらも出世をなすった方はあろうけれど遠山様のような話はありますまい。」
「どうかまア遠山さまの御威光で先生の御身の上に別条のないようにしたいもんさ。万一の事でもあろうものなら、手前なんぞは先生とはちがって虫けら同然の素町人故、事によったら遠島かまず軽いところで欠所は免れまい。」
「もし鶴屋さん、縁起でもねえ。そんな薄気味の悪い話はきつい禁句だ。そんな事をいいなさると何だかいても立ってもいられないような気がします。ぼんやりここで気ばかり揉んでいても始まらぬから私はその辺までちょっと一ッ走り御様子を見て参りましょう。」
種員は桟留の一つ提を腰に下げて席を立ちかけたが、その時女中に案内されて梯子段を上って来たのは、何処ぞ問屋の旦那衆かとも思われるような品の好い四十あまりの男であった。越後上布の帷子の上に重ねた紗の羽織にまで草書に崩した年の字をば丸く宝珠の玉のようにした紋をつけているので言わずと歌川派の浮世絵師五渡亭国貞とは知られた。鶴屋はびっくりして、
「これはこれは亀井戸の師匠。どうして手前共がここにいるのを御存じで御ざりました。」
「実は今日さる処まで暑中見舞に出掛けたところ途中でお店の若衆に行き逢い堀田原の先生が日蔭町のお屋敷へしかじかとのお話を聞き、私も早速先生の御返事が聞きたさに急いでやって来ましたのさ。時に先生はまだ遠山様のお屋敷からはお帰りがないと見えますな。」
国貞は歩いて来た暑さに頻と団扇を使い初める。立ちかけた種員は再び腰なる煙草入を取出しながら、「五渡亭先生も御存じで御座いましょう。手前と相弟子の彼…